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真寂入道親王
平安時代中期の皇族・入道親王・法親王。宇多天皇の三男。三品、兵部卿 ウィキペディアから
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真寂入道親王(しんじゃく にゅうどうしんのう)は、宇多天皇の第三皇子。母は橘義子。出家前は斉世親王(ときよ しんのう)。官位は三品・上総太守。
経歴
光孝朝の仁和2年(886年)臣籍降下していた源定省の三男・源斉世として生まれる。仁和3年(887年)父・定省の践祚(宇多天皇)に伴い、斉世も皇族になった。寛平元年(889年)兄弟3人とともに親王宣下を受ける。
寛平8年(896年)大学寮において講書初めが行われ、昌泰元年(898年)元服した。その後、醍醐朝にて兵部卿・上総太守などを歴任した。しかし、延喜元年(901年)斉世親王の兄である醍醐天皇から斉世親王に譲位させようとしたという嫌疑により、岳父の右大臣・菅原道真が大宰府に左遷されると、親王も三品親王・兵部卿の地位を剝奪され、無品親王・上総太守に落とされた[1](昌泰の変)。同年2月2日仁和寺に入って真寂と名乗った(『東寺長者補任』・『御室相承記』)。ただし、『日本紀略』では延喜5年(905年)3月16日のこととしている[注釈 1](後述)。
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備考
昌泰の変の発生当時、醍醐天皇には皇子が誕生しておらず、第二皇子である斉中親王は既に亡くなっていた。宇多上皇は藤原氏嫡流の娘である藤原穏子の入内に反対する一方で、皇位継承の安定化のために一刻も早い皇位継承者の確定を図っていたとされる。その場合、自ずと皇太子に立てられるのは斉世ということになり、醍醐天皇や藤原時平が何らかの疑念を持つことになる。その結果、両者の対立が深刻化した場合には上皇側が対立した醍醐天皇の廃立計画を企てた可能性も考えられるとする指摘がある[3]。
出家の日付について延喜元年説と延喜5年説があるのはどちらかの説が間違っているのではなく、本人もしくは宇多上皇の意向によって延喜元年に出家の意思を示して仁和寺に入ったものの、皇位継承問題の原因となる醍醐天皇の皇子不在が解消するまで正式な出家は延ばされたのではないかと推測されている[4]。
経歴
系図
54 仁明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
55 文徳天皇 | 58 光孝天皇 | 人康親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
56 清和天皇 | 惟喬親王 | 59 宇多天皇 | 藤原基経妻 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
57 陽成天皇 | 貞純親王 | 真寂法親王 (斉世親王) | 敦実親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
源清蔭 〔陽成源氏〕 | 源経基 〔清和源氏〕 | 源雅信 〔宇多源氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
60 醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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系譜
英明が長男であることは『吏部王記』逸文に引かれた死没記事に、庶明が三男であることは『公卿補任』から確認できる。また、『醍醐天皇御記』延喜17年正月21日条逸文には去晦日(すなわち前年の大晦日、延喜16年12月29日)に亡くなった法師親王の王子の廃朝について朝議の議題に上がったことが記されており、この王子が次男であった可能性がある[6]。
脚注
参考文献
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