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三島由紀夫の小説 ウィキペディアから
『盗賊』(とうぞく)は、三島由紀夫の最初の長編小説。全6章から成る。恋する相手に捨てられ傷つき、自殺を決心した男と女が出会う物語。失恋の苦悩と、新たな出会いから互いの胸の中の幻影を育て合う悲劇的な結末までを、人工的で精緻微妙なタッチで描いたロマネスクな心理小説である。文体や箴言の多用などにレイモン・ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』の影響がみられる作品である[1][2][3]。東京帝国大学法学部在学中から大蔵省在職時代にかけて書かれたもので[1][4]、三島自身が「第四の処女作」「長篇の処女作」と呼んでいる作品である[5]。
盗賊 | |
---|---|
作者 | 三島由紀夫 |
国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
ジャンル | 長編小説 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
初出情報 | |
初出 |
「自殺企図者」(のち第2章「決心とその不思議な効果」)-『文学会議』1947年12月号 |
刊本情報 | |
刊行 | 『盗賊』 |
出版元 | 真光社 |
出版年月日 | 1948年11月20日 |
収録 | 短編「序章」- 『夜の仕度』 鎌倉文庫 1948年12月1日 |
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1947年(昭和22年)から翌年にわたり、以下のように各章が断続的に別々の雑誌に掲載される形で書き継がれた[6][7]。なお、起筆は前年1946年(昭和21年)の正月である[1]。
以上の章に書き下ろしの第6章「実行―短き大団円」を加えて、1948年(昭和23年)11月20日に単行本『盗賊』が真光社より刊行された[6][8]。初出と単行本では若干の異同がある[7]。文庫版は1954年(昭和29年)4月30日に新潮文庫より刊行された[8]。
なお、一時完成を諦め、第1章の主要部分だけを短編「序章」と題して発表していた(掲載雑誌は不明)[1][7]。この「序章」は1948年(昭和23年)12月1日に鎌倉文庫より刊行の『夜の仕度』に収録された[7]。
第1章 - 物語の発端
第2章 - 決心とその不思議な効果
第3章 - 出会
第4章 - 周到な共謀(上)
第5章 - 周到な共謀(下)
第6章 - 実行―短き大団円
『盗賊』は、三島由紀夫が戦争末期に親しくしていた三谷邦子(三谷信の妹。初恋の女性で、戦後すぐに他の男と結婚)との別離の痛手や、妹・美津子の死など、当時の三島の荒廃した精神状態が執筆動機となっている[4][10][11]。なお、三島が知人に送った手紙の中で、〈彼女のことを書かないでゐたら、生きてゐられなかつた〉と書き綴り、次作長編『仮面の告白』のヒロイン「園子」になるのが三谷邦子である[12][11](関連は三島由紀夫#終戦後の苦悶と焦燥を参照)。
『盗賊』は三島にとって初の長編小説で、執筆中、三島は何度も改稿を重ね、その過程で度々川端康成に原稿を見てもらい苦労して書き上げた[4][13]。この時期は川端が最も親身となって三島の面倒を見ていた頃で、力添えを惜しまず、三島の才能に期待をかけていた[4][14]。また、三島は約7年後、この当時の自分のことを〈最も死の近くにゐた〉と振り返っている[15][11]。
三島は、〈世界的な大傑作を書くつもりでゐた〉『盗賊』について[5]、〈私はラディゲの向うを張りたいと思つてゐた〉が、うまくはいかなかったとし、〈その無慙な結果は、今、私の目前にある。私はこれを読み返す。そしてそのころの稚心を少しも恥ぢようとは思はない〉とも述べている[1]。時代設定などは以下のように語っている[1]。
創作ノートにおいては、〈平和な時代に仮託した物語〉で、〈戦争と乱世の心理〉を描く意図があったことも記されている[16]。
また、この作品を〈第四の処女作〉と呼び、自身の作品中で〈最も不完全なもので、永遠に完成を見る見込がないもの〉、〈賽の河原のやうな小説〉だとしている[5]。なお、作中の〈S高原〉は志賀高原を舞台モデルにしており、1944年(昭和19年)に学習院の同級生の三谷信、大岡忠輔と一緒に卒業旅行に行ったときの経験が活かされている[1][7]。
『盗賊』は発表当時にほとんど反響がなかった作品で、敗戦直後の乱世の時代には「他愛のない“お話”」の人工的な物語としか見なされずに低評であった[17][18][7]。個別作品論もほとんど無い傾向にあり、包括的な作家論の一端として言及される場合が多い[7]。
武田泰淳は三島の自評の言葉を受け、「決して〈無慙な結果〉ではない」とそれを否定しつつ[19]、「稚心などという単語と、これほど無縁な作品はない」として、小説技術である「作家が自己の精神を吟味し表現する操作に関して、豊富な手がかりを提出している点では、『仮面の告白』より大切な長編だとも言える」と考察している[19]。そして『盗賊』は「やや神経過敏のため、肉色が蒼ざめたきらいがある」とし[19]、論理、説明、主張、警句、才智である「骨」があらわとなっているため、「骨をあらわに示さずに、肉づきだけでよく骨格を知らせる」ようなツルゲーネフの『初恋』の域には至っていないが、「骨なし小説の多すぎる日本にあっては、多少骨のきしみが耳ざわりでも、三島氏の長編の骨格の正しさを尊重し宣揚したい」と評している[19]。
磯田光一は、戦後直後の三島の中に「青年期の異性に対する喪失感と世代に内包されていた喪失感とが交錯」していたとし、「〈金閣と共に滅びうる〉という幸福」(完璧な愛の実現)が無くなった戦後の三島にとって、『盗賊』の主人公たちは、「三島の思いえがいた理想の生の形式」であり、過ぎ去った「〈愛〉と〈死〉との饗宴」を「人工的に構築しようとした作品」だと解説している[20]。そして磯田は、『盗賊』の創作自体が「エゴイズム、ヒューマニズムの旗印をおし立てた戦後の進歩主義思想に対する、逆説にみちた兇悪な復讐行為」であり、「エゴイズムを抹殺する楽しさを描いた作品」だとして、「戦後の進歩主義思想の根底にあった〈有効性〉の観念への果敢な挑戦」だと考察している[20]。
川端康成は、三島が最初の長編小説で、「恋人が結婚のその日に心中するといふ心理」に陥り、その作品を『盗賊』と名づけた創作意図に触れつつ[14]、「自殺する二人が盗み去つたもの」は、「すべて架空であり、あるひはすべて真実であらう」とし、以下のように語っている[14]。
また、川端は、三島の作家としての将来について、「人生を確実にし、古典と近代、虚空の花と内心の悩みとを結実するやう、かねて望んでゐる」と述べながら[14]、「『盗賊』のやうに青春の神秘と美とを心理の構図に盗み切らうとする試みも、三島君の歩みには必然の嘆きの呼吸であらうか」と評している[14]。
なお、これらの川端の評言は、三島の中に「半歩間違えば、あちらの世界へ行ってしまう」ようなものを、川端が直感し、「脆そうな造花」は、三島を「生に繋げる細い細い糸」と見ていたと松本徹は解説している[4]。この川端の文章は、その後の三島の作家活動や運命を暗示していたものとして、三島の死後、数多くの三島論で引用されている[注釈 1]。
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