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白田 省吾(しらた せいご、1852年3月19日(嘉永5年2月29日[1])- 1915年(大正4年)6月7日[1][2][3])は、明治から大正初期の農業指導者、政治家。衆議院議員、山形県会議長、山形県東村山郡蔵増村長。
出羽国村山郡、のちの山形県[2]東村山郡蔵増村(蔵増村[3]大字蔵増[1]、天童町を経て現天童市大字塚野目[1])で、白田弥右衛門の長男として生れた[1]。年少の頃、館林藩漆山陣屋の藩士から漢学、剣術を学び、その後、天童藩士、剣術指南役・大武平蔵につき一刀流の修行を行い、父弥右衛門から珠算を学んだ[1]。
1879年(明治12年)1月、北蔵増村用掛に就任[1][4]。以後、同戸長、蔵増村長、同村会議員、東村山郡会議員、同参事会員、同議長などを務めた[1][2][3][4]。1891年(明治24年)8月、山形県会議員に選出され[4]、衆議院議員在任中を除いて死去するまで通算7期在任し[1]、この間、同参事会員(3期)、同副議長(1期)などを務め[1][4]、1911年(明治44年)10月から同年12月まで県会議長に在任した[1]。
1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(山形県第1区、進歩党)で当選し[1][5]、同年8月の第6回総選挙(山形県第1区)では落選し[5]、衆議院議員に1期在任した[2][3]。
その他、東村山郡教育会副会長、同郡農会長、山形県地方森林会議員、同農会議員、日本体育会山形県顧問、大日本武徳会山形県支部委員、山形県結核予防会評議員、山形県消防協会名誉会員、日本赤十字社商議員、東村山郡染織同業組合長、山形県織物同業組合連合会長などを務めた[1][2][3][4]。
1915年6月、脳軟化症により自宅で死去した[1]。
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