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1886-1941, 美術家 ウィキペディアから
田中 保(たなか やすし、1886年5月13日[1] - 1941年4月24日)は、日本の美術家。埼玉県南埼玉郡岩槻町(現・さいたま市)出身。浦和画家の一人で、海外で活躍したエコール・ド・パリの画家で、パリの画壇でサロンを中心に豊満で官能的な裸婦像を発表し、「裸婦のタナカ」として賞賛を浴びた。日本に一度も帰国することなく第二次世界大戦中のパリにおいて客死したため、その生涯はほとんど知られていなかったが、次第にその業績が知られるところになり、近年評価と関心が高まってきている。
旧岩槻藩士の金融業を営む収・きよの四男として生まれる。1902年父収の死によって一家は破産し、離散状態になる。1904年埼玉県立第一中学校(現・埼玉県立浦和高等学校)卒業[2]後、単身渡米しシアトルへ渡る。その後皿洗いやピーナッツ売り[1]などで生計をたてる暮しのなかで、次第に画家の道を志すようになり独学で絵画の勉強を始める。1912年頃、アカデミックな傾向のオランダ人画家フォッコ・タダマの画塾に入学し、素描や油彩を学ぶ。洋画家清水登之及び野村賢次郎もここで学んでいる。
1915年シアトル市公立図書館展示室で初めての個展を開く[1]。この頃タダマの画塾で指導するかたわら、自らも画塾を開く。同年アメリカ合衆国代表としてパナマ・サンフランシスコ万国博覧会に《マドロナの影》を出品する。1917年個展で発表した裸婦を描いた作品が風紀上好ましくないという理由から撤退勧告を受けるが、抗議文を発表して信念を貫く。個展は大評判となり、一日に千人も押し寄せる。同年判事の娘であり、詩人及び美術評論家で活躍しているアメリカ人ルイーズ・カンと結婚[3]。1919年北西画家展で出品した《秋の小川》が2等賞を獲得する[4]などアメリカで画家として成功する。
1920年更なる高みを求めて美術の中心地フランス・パリに約100点の作品を携えて移住する。その後、画塾を開きながら個展の開催やサロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・デ・ナショナル、サロン・デ・チュイルリーなどの展覧会に出品する。1921年《銅の花器》、1922年《夜のセーヌ》がフランス政府に買い上げられる。1924年渡仏中の東久邇宮、朝香宮及び同妃夫妻が個展の出品作品の中から8点を購入する。同年リュクサンブール美術館に《渓流にて》が買い上げられジュ・ド・ポーム(印象派美術館)に展示されるなどパリでも画家としての地位を築く。1927年サロン・ドートンヌ、1929年には、サロン・デ・ナショナルの会員となる。
1939年第二次世界大戦が勃発し、日本人のほとんどが帰国する中パリに留まり、戦火を避けながら、定期的に作品の発表を続ける。1941年ドイツ軍占領下のパリで病没する。遺髪は、夫人によって岩槻に届けられ菩提寺である芳林寺に埋葬される。1946年パリのL・マルセイユ画廊にて遺作展が開催される。
この後、田中の作品群は夫人に愛蔵され、人目に触れることもなく終生愛される。夫人の死後、その遺産が売却されることになり、改めて田中の作品が世に出る。たまたまニューヨークの画商がフランスの地方を旅行中、ある画廊で田中の作品群に眼をとめ感動し、蒐集する。田中の没後35年を経過した1976年、東京・伊勢丹で「田中保展」が開催され、夫人の遺産から蒐集した主な遺作34点が祖国日本で初公開される[5]。
作品の多くは出身地である埼玉県立近代美術館及びサトエ記念21世紀美術館にコレクションされている。近年他の美術館でも田中保のコレクションが徐々に増えている。2022年にはその埼玉近代で大規模な回顧展が開催された[6]。しかし、その一方で同年にサトエが閉館となり、現在の所在は不明である[7]。
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