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江戸時代の藩主 (1734-1755) ウィキペディアから
牧野 忠利(まきの ただとし)は、越後長岡藩の第7代藩主。長岡藩系牧野家8代。
享保19年(1734年)9月27日、日向延岡藩主・牧野貞通の八男として延岡にて生まれる。ちなみにこの翌日に貞通は奏者番となる。
延享5年6月(1748年)、長岡藩第6代藩主で長兄である牧野忠敬が嗣子なく死去した。当時京都所司代であった貞通とともに京都にいた忠利は、急遽江戸に下向して寛延元年8月(1748年)に長岡藩江戸藩邸に入り、末期養子として長岡藩主家の家督を相続した。
同年12月に従五位下、駿河守に叙任する。なお、長岡藩史料の「御附録」では実年齢は15歳であるが、「内慮あって」公年を17歳と幕府に届けているので、『寛政重修諸家譜』では享保17年(1732年)出生扱いとなっている。ちなみに17歳は末期養子が原則許可される最低年齢である。
寛延3年(1750年)に、公式上は膳所藩主・本多康桓の娘となっている、牧野忠周の長女である茂姫と婚約する。宝暦4年(1754年)に三蔵火事で全焼した長岡城本丸が再建完了する。宝暦5年6月23日(1755年)に茂姫と婚礼となるが、同年7月24日に22歳で死去した。
家督は公式上の異母弟(実は忠周実子、正室茂姫の実弟)である忠寛が継いだ。墓所は東京都港区三田の済海寺。のち新潟県長岡市の悠久山に改葬された。
父母
正室
養子女
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