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片岡 博國(かたおか ひろくに、1916年11月24日 - 2003年3月17日[1])は、愛知県出身のプロ野球選手、二軍監督・コーチ、スカウト。
毎日オリオンズ時代(1950年) | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県名古屋市 |
生年月日 | 1916年11月24日 |
没年月日 | 2003年3月17日(86歳没) |
身長 体重 |
171 cm 66 kg |
選手情報 | |
ポジション | 捕手/一塁手 |
プロ入り | 1950年 |
初出場 | 1950年 |
最終出場 | 1954年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
現役引退後 | |
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この表について
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名古屋棣棠(やまぶき)尋常小学校時代の1928年に全国少年野球大会で全国優勝、東邦商業で、1934年春の第11回選抜中等学校野球大会に出場し、初出場で初優勝を果たす。3番打者として打率5割で打撃賞、5点で生還打賞、優秀選手賞の3冠を受賞している[1]。また、同年夏の第20回全国中等学校優勝野球大会 愛知予選では初出場ながら準決勝へ進出。「ベスト4」まで躍進させた立役者となる。
早稲田大学では東京六大学野球リーグでも活躍し、1938年にはハワイ遠征メンバーにも選ばれた。卒業後、社会人チームの昭和製鋼所野球部(満州鞍山製鋼所野球部)に在籍し、名古屋鉄道局を経て函館オーシャンに入団。久慈次郎に継ぎ、4番捕手として活躍。1947年、第18回都市対抗野球大会に出場、1949年には後楽園球場で開催された第20回都市対抗野球大会に出場し「美技賞」を受賞している。同年の1949年には、日本代表選手として、ノン・プロ野球オールスター大会に出場を果たしている。
その後、二リーグ制が導入された1950年に毎日オリオンズへ入団。開幕直後に7試合連続安打(本塁打2本(2試合連続)、3塁打1本、2塁打1本 等 計6点)を放つなど[2]打率.303、OPS.842の活躍でパリーグ優勝、第1回日本ワールドシリーズでは、先発メンバーとして出場。1戦目の2回表に両チーム初、日本ワールドシリーズ初となる「初打点」を挙げるなど活躍し、球団史上初の優勝へ貢献[3]。日本球界にとって記念すべき第1回日本ワールドシリーズの「優勝碑メダル」が贈られた[4]。更に「1950年 日本ワールドシリーズ優勝 H.K」という文字が刻まれた「チャンピオンリング」も手にし、チャンピオンリングという米国文化を日本に取り込んだ第一人者となる[5]。
1950年12月、パリーグ選抜チーム「渡布軍」に選出され、1951年2月11日から4月7日までの2ヶ月間、ハワイ遠征に参画。15勝3敗で優勝を果たしている[6]。同年、現在のオールスターゲームの前進、パ・リーグオールスター東西対抗に出場、翌年の1951年にオールスターゲームにも出場している。1952年には、日本国際学生協会名誉会長として高松宮殿下も観戦された11月26日開催の「オープン戦ファン感謝野球祭」に出場。国鉄戦で8回に「代打満塁ホームラン」を放ち勝利に貢献。多くのファンや球宴を盛り上げ、日刊スポーツの一面を飾った。
現役時代は、日米野球にも多数出場している。1950年、ノンプロチャンピオンの「フォートウェイン・ケープハーツ」と対戦。1951年、戦後初、ジョー・ディマジオ率いる「全米選抜チーム」と対戦。1953年、ロビン・ロバーツ、ヨギ・ベラ率いる「MLB選抜チーム」と対戦している。
1954年に引退し、イースタンリーグが設立された1955年から毎日グリッターオリオンズの監督(毎日オリオンズの二軍監督)へ就任[7]。チームは16勝5敗3引分、勝率「.762」という圧倒的な強さで優勝を遂げた。なお、この勝率「.762」は2024年時点で「歴代同率2位」である。9月に行われたジュニアオールスターではイースタン・リーグのパ・リーグ監督に選ばれている。1956年には、日本のプロ野球リーグ制が始まって20年を記念して行われたオールドオールスターゲームの選手に選ばれ、2試合のOB戦を盛り上げた。その後、1963年から1973年まで阪急ブレーブス二軍監督・コーチへ就任。二軍監督として、1965年優勝、1966年に勝率「.787」でウェスタンリーグ球団史上初の2連覇を達成。この1966年勝率「.787」は、2024年時点で「歴代2位」である。また、両リーグ(ウェスタンリーグ、イースタンリーグ)初となる、1965年から3年連続ジュニア・オールスターゲーム コーチを歴任。1970年もジュニア・オールスターゲーム コーチを務めた。
1967年以降は、一軍監督 西本幸雄とのコンビで、パリーグ6度の優勝(球団史上初の3連覇、2連覇、後期優勝)を果たす。また、二軍監督として1965年から1971年まで「7年連続 ウェスタン・リーグ Aクラス入り」 を果たした。この記録は、複数年務めた数々の二軍監督の中で、ウェスタン・リーグの記録上、2024年時点で未だに破られていない。また、阪急では福本豊、加藤英司などの育ての親であり、1983年6月3日、当時ルー・ブロックが保持していたMLB記録を上回る通算939盗塁を記録し、世界新を達成した際に、阪急電鉄より発行された「ブレーブスニュース~福本特集号~」の中で、"福本選手を世界一に育てた男達" の一人として紹介されている。なお、加藤英司には手を焼き[8]、打撃技術のほか、「規律」まで指導していた。
1977年にプロ野球を引退。同年、明治神宮外苑 硬軟球打撃練習場を伊丹安広とともに創業。同年4月には、硬軟球打撃練習場の場長に就任。場長兼打撃専属コーチとして6年間務め、アマチュア選手の育成に尽力。また、打撃練習場の場長として、年間約「1億円」を売り上げ、明治神宮外苑の発展に貢献。
1982年からは、林和男が経営するバッティングセンター調布の専任バッティングコーチに就任。アマチュア選手育成のほか、アマチュア選手であった稲垣修治を林和男とともに働きかけ1982年のルーキーとして、巨人軍入団を実現させた。
そして1983年、福本豊、加藤英司、長池徳二、山田久志、 森本潔、今井雄太郎など、多年に亙って二軍の選手育成に尽力し、多くの俊秀を育て多大な成果を収めたことを讃え、NPBコミッショナー下田武三氏より特別表彰『ウェスタン・リーグ功労者賞』が贈られた[1]。なお、表彰式は1983年7月22日に後楽園スタヂアムで開催されたジュニアオールスターゲーム(入場者数 50,000人)の球宴前に行われたが、阪急時代、手塩にかけて育てた福本豊が、通算939盗塁を記録し、当時の世界新を達成した1983年6月3日の翌月でもあり、師弟とも、日本の野球界に深い記憶を刻む歴史的な年となった。
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950 | 毎日 | 63 | 171 | 155 | 22 | 47 | 11 | 2 | 4 | 74 | 26 | 1 | 1 | 1 | -- | 15 | -- | 0 | 18 | 3 | .303 | .365 | .477 | .842 |
1951 | 55 | 94 | 83 | 7 | 19 | 3 | 1 | 2 | 30 | 20 | 1 | 1 | 1 | -- | 10 | -- | 0 | 9 | 3 | .229 | .312 | .361 | .673 | |
1952 | 42 | 54 | 48 | 2 | 13 | 2 | 0 | 0 | 15 | 10 | 0 | 0 | 0 | -- | 6 | -- | 0 | 3 | 1 | .271 | .352 | .313 | .664 | |
1953 | 51 | 90 | 81 | 3 | 13 | 0 | 1 | 0 | 15 | 9 | 0 | 0 | 1 | -- | 8 | -- | 0 | 16 | 3 | .160 | .236 | .185 | .421 | |
1954 | 32 | 37 | 26 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 10 | -- | 0 | 11 | 0 | .077 | .333 | .077 | .410 | |
通算:5年 | 243 | 446 | 393 | 35 | 94 | 16 | 4 | 6 | 136 | 68 | 2 | 2 | 3 | 1 | 49 | -- | 0 | 57 | 10 | .239 | .324 | .346 | .670 |
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