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『熊谷家伝記』(くまがいかでんき・くまがいけでんき)は、天竜川上流の信濃(長野)・三河(愛知)・遠江(静岡)の三国(三県)境地域の、中世(南北朝時代)の山村落形成から近世中期(江戸時代)に至る、山村落のほぼ編年的な記録。
現在の長野県下伊那郡天龍村の坂部を開郷したとされる熊谷貞直の子孫の十二代目、熊谷直遐(なおはる、なおよし)が、代々熊谷家当主が記録してきた記録を明和8年(1772年)に編纂した。中世山村史研究の重要史料とされるだけでなく、柳田國男が高く評価する(柳田國男「東国古道記」1949)など、日本の民俗学において著名な史料である。
原本に、佐藤家蔵本と宮下家蔵本がある。佐藤家蔵本は、熊谷家の15代徳五郎が、幕末に村民との争いが原因で公事に破れ、熊谷家の没落原因を作り、家出し、三河国河内村(現愛知県北設楽郡豊根村)の遠縁の佐藤家に寄寓し、さらに佐藤家から去る際に、佐藤家に譲り渡したもの、宮下家蔵本は、やはり徳五郎が、代々熊谷家と密接な関係を有していた信濃国和合村(現長野県下伊那郡天龍村)の宮下家に渡したものとされている(市村咸人『熊谷家伝記』第4冊3頁)。原本の表題は『家伝記』が一般的。佐藤家蔵本は、山崎一司等により愛知県旧富山村で復刻された。宮下本は信州大学教育学部附属中学校教諭らにより、抜粋・翻訳され、「信濃古典読み物叢書」の一冊となっている。市村咸人は、両原本を校訂して復刻している。なお熊谷家自体は復興し、現在も天龍村に末裔が存在する。
初代貞直記。
熊谷直重の娘常盤と新田義貞との子である熊谷貞直は、伯父熊谷直方の養子となり、南朝=新田方に属したが、新田義貞が手越河原の戦いで敗戦した後、足利尊氏の追及を逃れて、三河奥地の多田氏を頼る。多田氏とその女婿の田辺氏らの援助を得ながら、信濃国境の左閑辺(後の坂部)を開拓し、その分内の源公平に文和年間に永住する。左閑辺(さかんべ)の地名の由来は、平安時代末期に源義仲(木曽義仲)が同地通過の際、「左善・阿閑」夫婦の辺りに宿泊したことにより、義仲が命名したという。
ちなみに熊谷氏の家紋は一般に「寓生(ほや)に鳩」「鳩に寓生」であるが、貞直記では「蔦(つた)に鳩」と伝える。
二代直常記、三代直吉記、四代直勝記。
直常は、貞直が住んだ源公平が狭く、不自由で、要害にも適さないので三河国境の佐太(さぶと・三分渡)を開郷。直常の許しを得て、村松正氏が見当・向方(天龍村神原)・新野(阿南町且開)を、後藤六郎左衛門が福島(天龍村神原)を開郷。
直吉は、左閑辺に移ったが、分内の風越山に金田法正が徒党を組んで侵入したので、合戦。その後和議を結び、法正にも分内を分与。村松氏らが太守と仰ぐ関氏初代、関盛春への服属勧誘を受けたが、拒絶し、戦って家来にせよ、と挑発し、郷内防衛に尽くしたところ、盛春は左閑辺に侵入しなかった。自領の自衛のみを考える「一騎立」としての立場を鮮明にしたといえる。
直勝は、熊谷山長楽寺を創建した。また関氏と敵対し続ける。関氏は下條氏と領地争いをし、戦国領主化していくが、熊谷氏は中立を守る。
五代直光記。
「一騎立」であった熊谷氏が関氏4代目の関盛常に服属する。「左閑辺(さかんべ)」を「左関辺」と誤記して、直光が関盛常に血判状を出した際、関盛常が提案して「坂部」と改まる。
直光が属する関氏が和知野川の戦いで下條氏を破る。
関氏5代目国盛が、傲慢となり、領内郷主が離反して謀反を起こし、関氏は滅亡。関氏領は下條氏に服属した。しかし基本的にまだ自衛的武力行使の段階。弘治元年(1555年)武田信玄に下條信氏が服したのに伴い、下條氏を通じて武田氏に臣従する。
六代直定記。
下條氏の配下にあった熊谷氏が、武田側の軍役要求に対し、遠国遠征の意義を見出せず、物納により、軍役免除。これにより、農家専業となる。兵農分離の一例。武田氏、豊臣氏による検地についての記述がある。
直定は、天正3年(1575年)の長篠の戦いに際し、武田勝頼配下の下條氏の陣にいた従兄弟の蓮心(平谷玄蕃)を三河国粟世(現愛知県北設楽郡豊根村) に病気見舞いに行き、武田方の敗戦を目撃する。また武田勝頼の敗走の道案内をし、勝頼が通った坂が直定の通称にちなんで「治部坂」と名付けられる。
直定によれば先代の直光は叔父で、実父の直寿は甲州田野の桂徳寺隠居であるという。
七代直隆記。
知久氏の知久頼氏が豊臣秀吉の疑を受けて一家離散したが、頼氏の娘、千代鶴と千代が熊谷家に寄寓する。武家の浮沈を厭った千代鶴とその主従が、直隆の尽力で、夏焼を開郷し、農家となった。これが、この地域での最後の開郷となる。
千代は、熊谷直隆に嫁ぐ。武田氏滅亡後、徳川氏の配下となった下條氏長が些細な理由で、所領召し上げられる。徳川氏による惣検地についての記述がある。
また幕藩体制成立期に直隆は、名主職を得るが、家来・被官百姓が本百姓として独立する過程が記されている。慶長年間の大坂の陣では飯田城に出向いて軍役を負担する。
八代直祐記、九代直春記、十代直古記、十一代直昭記。
村役人を熊谷家以外のものが占めるようになり、それに従い熊谷家を軽んずる傾向が徐々に強まり、また熊谷家自体も没落していく。
火事が起こり、館を再建する借金の担保に大角家に、熊谷家の家宝の代々の記録を譲る。
十二代直遐記。
遐記の幼少時には家運が傾いており、寛延3年(1750年)から約4年間江戸へ放浪する。
帰郷後、大角久之丞から、熊谷家家宝の代々の記録を譲り受け、編纂し、改定する。それにより、熊谷家が幕藩体制成立期に有していた諸権利の存在を発見し、それらを復活させ、村民にも認めさせる。
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