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日本の江戸時代中期~後期の武士・故実家。江戸幕府旗本瀬名俊光の子で、旗本瀬名氏5代当主(瀬名氏9代当主)。大番・奥御祐筆組頭格を勤め、多くの著作や編纂に関わった ウィキペディアから
瀬名 貞雄(せな さだお)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本・故実家[1]。武家故実・歴史・地理に関する著作をおこなった[1]。『藩翰譜続編』の編纂や、大田南畝との『瀬田問答』で知られる。号は狐阡軒(こせんけん)[2]。
旗本瀬名俊光の子として生まれる。諱ははじめ弌福(かずまさ)[3]。
延享4年(1747年)11月29日、父の隠居により家督を継ぐ[3]。寛延元年(1748年)3月28日、徳川家重に初謁[3]。同年5月10日に大番となり、天明2年(1782年)7月6日まで務める[3]。
寛政元年(1789年)8月26日、奥御祐筆組頭格となり[3]、同年12月16日に布衣をゆるされる[3]。平岡資模の『御九族記』編纂に関与し、『御九族記』完成後の寛政2年(1790年)5月22日にこれが賞されて時服2領を賜る[3]。『藩翰譜続編』の編纂も進めたが、完成を見ることはできなかった。
寛政8年(1796年)10月12日、老齢を理由として職を辞し、旗本寄合席に列する[3]。このとき、時服3領を賜る[3]。『寛政譜』によれば同年11月17日死去[3]。享年81[3]。ただし『朝日日本歴史人物事典』によれば10月4日没とある[1]。
『
このほか代表的著作として『今川家式』[1]『武家職掌分類』[1]『江戸割絵図』[1]『改撰江戸志』[1]『関東補任記』[2]などが挙げられる。
瀬名家は遠江今川氏の一族(今川貞世の末裔)にあたり[1]、明和2年(1772年)には今川一族の由緒を記した「今川一苗之記」(内閣文庫蔵)を著している。
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