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澤 春蔵(さわ はるぞう、1901年(明治34年)3月5日 - 1972年(昭和47年)7月24日[1])は、日本の実業家。日本交通の創業者。
1901年(明治34年)3月、鳥取県岩美郡大岩村大谷(現在の岩美町大谷)に生まれる[1]。1914年(大正3年)3月[要出典]、大岩小学校(現・岩美西小学校)を卒業する。春蔵は就学前に足を痛めていたため、自動車で自分の未来を開拓しようと考えた[1]。その頃、日本国内にも自動車の数は少なく、鳥取県内では更に珍しいものだった。春蔵の得た運転免許は鳥取県内第3号であった[1]。
1919年(大正8年)18歳の春蔵は1台のトラックで運送業を始めた[1]。春蔵の事業は先進的だったが、閉鎖的な風土や不便な道路事情などにより、運送業としての見通しが立たなかった[1]。
1923年(大正12年)9月、関東大震災が起こり、東京が壊滅状態になった[1]。春蔵は復興事業に参加しようと考えたが「東京は鳥取から遠すぎる」と大阪で下車し、タクシーの運転手として働くことにした[1]。1926年(大正15年)3月、25歳の時に大阪に「澤タクシー会社」を創立した[1]。1934年(昭和9年)、室戸台風により新車85台が使用不可能になり、一時は破産状態になるが、3年半で事業を再建[1]。「大阪に沢タクあり」と注目されるようになる[1]。
日中戦争が深刻になるにつれ政府の経済統制が厳しくなり、タクシー業界も多元統制が命じられた[1]。1941年(昭和16年)2月、澤春蔵は「澤タクシー株式会社」を中核として「日本交通株式会社」を創立した[1]。終戦直後の日交本社は空爆による火災焼失に加え、同年9月の枕崎台風で冠水しため、使用できる車は数台という状況であった[1]。敗戦の3ヵ月後に本社を大阪府西区新町4丁目の小学校跡地に移し、残存自動車から使用可能な部品を集めて車を再生した[要出典]。一方で、調達の困難さから自社整備工場で車を造ろうと決意し、日交型自動車が製造された[1]。
鳥取県では1945年(昭和20年)10月、澤春蔵に免許が与えられ、「沢(澤)タクシー」[注釈 1]の名で開業されることになった[1]。それが発展して、大阪府の法人と同名の1966年(昭和41年)8月、日本交通株式会社(鳥取)と名称を変えた[1]。その後、関西・山陰の各地で事業を行ったが、主軸である「日本交通株式会社」を冠するバス・タクシー企業についても法人を一元化せず、大阪・鳥取と同様に各地域ごとに別法人とする手法を取った[要出典]。
澤は大阪と鳥取を結ぶ長距離バスを計画し、それを14年かかって実現した[1]。
1972年(昭和47年)7月24日、澤春蔵は営業所を見回ったあと、自分の運転する自動車から降りて社長室の椅子に座ったところで[要出典]急死した。71歳だった。死後、五位勲三等瑞宝章が追贈された[2]。
坊主頭で黒い詰襟、飾らない人柄であり、タクシー同業者の間で親しみと敬意を込めて「和尚さん」と呼ばれていた[1]。春蔵は苦難の過去を振り返り、「1.体力、2.智力、3.忍耐力、4.情熱的努力」の4項目の信念を挙げている[1]。
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