澄田らい四郎
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澄田𧶛四郎(すみた らいしろう、1890年(明治23年)10月21日 - (昭和54年)1979年11月2日)は、日本の陸軍軍人。陸士24期・陸大33期首席。最終階級は陸軍中将。
本籍愛媛県。澄田忠興(陸軍中佐)の四男として名古屋で生れる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月28日、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月砲兵少尉に任官し重砲兵第4連隊付となる。陸軍砲工学校高等科を卒業し、澎湖島重砲兵大隊付、陸軍重砲兵射撃学校教官などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(第33期)を卒業(首席[1])。
由良重砲兵連隊中隊長、陸軍省軍務局付勤務(砲兵課)、軍務局課員、フランス駐在などを経て、1925年(大正14年)から3年間、フランス陸軍大学校で学んだ。フランス滞在中には、フランスに留学していた甘粕正彦とも親交があった。
帰国後、陸大教官、参謀本部部員、兼軍令部参謀、フランス大使館付武官、陸大教官、参謀本部課長、野砲兵第3連隊長、砲兵監部部員、独立重砲兵第15連隊長などを歴任し、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級した。
野戦重砲兵第6旅団長、陸軍重砲兵学校長、大本営参謀(仏印派遣団長)などを経て、1940年(昭和15年)の北部仏印進駐にあたってハノイに出発する際、東條英機陸相から「悪くなっている仏印側の対日感情を和らげること。フランス側には平和進駐であることを徹底せしめよ」と訓辞を受けている[2]。1941年(昭和16年)7月、南部仏印進駐に際しても現地で折衝にあたる。翌8月、陸軍中将に進級。同年9月、第39師団長に親補され、宜昌の警備に当たる。1944年(昭和19年)11月、第1軍司令官に転じ、太原で敗戦を迎えた。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[3]。1949年(昭和24年)2月に復員した。
なお、第1軍の将兵のうち2,600名は大陸に残留し、中国国民党系の閻錫山の軍隊に参加して、3年半以上にわたって中国内戦を戦うことになったが、この残留が澄田と閻錫山との密約に基づくものであり、澄田は部下将兵を「売って」帰国したのである、という説がある[4]。支那派遣軍参謀として敗戦を迎えた宮崎舜市中佐(陸士40期・陸大51期恩賜)は[1]、澄田による「残留命令書」を見たと証言している[5]。
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