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滿尾 君亮(みつお きみすけ、1901年(明治34年)9月5日[1] - 1994年(平成6年)8月3日[2])は、日本の政治家、衆議院議員、運輸官僚。
満尾彦吉の長男として[3]、鹿児島県鹿児島市上之園町で生まれ[1]。4年生まで中洲尋常小学校に通い、鹿児島県師範学校附属小学校に転校し卒業[1]する。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て第七高等学校造士館 (旧制)文科甲類卒業する[4]。旧制鹿児島二中では、のちの鹿児島市長平瀬實武と同級となる[5]。 1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科に入学し[6]。在学中の1925年(大正13年)11月高等文官試験外交科に合格する。1925年(大正14年)に卒業し[1][7]。鉄道省に奉職する。その年の月に高等文官試験行政科にも合格する。1934年(昭和9年)鉄道省在外研究員として、英米に留学[1][7]し、1936年(昭和11年)に帰国する。1938年(昭和13年)には、蒙疆聯合委員会交通部顧問[1][5]に就任する。1940年(昭和15年)鉄道省に復帰し、東京鉄道局監督部長に任じられる。1942年(昭和17年)には台湾総督府に移り、交通局鉄道部長を1944年(昭和19年)まで勤める。そして運輸通信省に復帰し、広島鉄道局長に任じられ。原子爆弾に被爆[1]する。終戦後、運輸省本省の自動車局長、陸運管理局長を歴任[1][5][7]。 1947年に退官して[5]、第23回衆議院議員総選挙鹿児島県第1区に日本自由党公認で立候補するが、僅差で次点となり落選。2年後の第24回衆議院議員総選挙も同選挙区に民主自由党公認で立候補し初当選[5][7]。任期中に民主自由党が自由党に党名変更。 第25回衆議院議員総選挙も同選挙区に自由党公認で立候補するが落選。1953年の第3回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で立候補したが落選した[8]。その後は、日本自動車会議所専務、日本道路公団理事、名神高速道路愛知建設所長、同東京支社長を歴任[1][5][7]。
位階
勲等
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