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江戸時代中期の越後新発田藩の世嗣。従五位下・伯耆守。溝口直温の六男。子に富六郎(次男、早世)、房姫(次女、早世) ウィキペディアから
溝口 直信(みぞぐち なおのぶ)は、江戸時代中期の越後国新発田藩の世嗣。官位は従五位下・伯耆守。
越後国新発田藩7代藩主・溝口直温の六男として誕生。幼名は恵三郎。諱は初め直堅、のち直信と改める。
宝暦11年(1761年)5月27日、8代藩主である兄・直養の養子となり、世子とされる。明和6年(1769年)3月1日、徳川家治に初めて拝謁する。安永元年12月18日(1773年)、従五位下・伯耆守に叙任される。天明5年(1785年)、病身の直信には家督相続は難しいとして、その廃嫡がはかられる事件(退身一件)が起きた。この事件の背景には生母の清涼院の意向があったとも言われ、その後しばらく続く藩内の権力抗争の幕開けでもあった。
天明6年(1786年)に直信は世子に復帰するが、同年7月12日に江戸において31歳で没した。法号は光通全達観浄院(観浄院殿前伯州大守光通全達大居士とも)。江戸駒込の吉祥寺に葬られる。家督以前に没したため、直養の家督は直信の長男・直侯が継いだ。
子女は2男8女[1]。
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