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源 為憲(みなもと の ためのり)は、平安時代中期の貴族・文人。光孝源氏、美濃権守・源是恒の曾孫。筑前守・源忠幹の子。官位は正五位下・伊賀守。
文章生から、内記・蔵人式部丞を経て、巡爵により従五位下に叙せられる。のち、花山朝で三河権守、一条朝で遠江守・美濃守・伊賀守と地方官を歴任した。遠江守在任中に国内の作田を1200余町から3500余町にしたといい[1]、『北山抄』『吏途指南』に遠江守在任時の功過定のことがみえる。
長保元年(999年)12月に美濃国で発生した藤原宗忠による橘惟頼・平頼親等の殺害事件に関して、国守の為憲も罪を問われる[2]。為憲は職務の停止を命ぜられ[3]、明法による解官の勘申も行われるが[4]、翌長保2年(1000年)2月には以下理由により赦されている[5]。
なお、長保2年(1000年)9月に承香殿の築垣の上に小児の死体が置かれ、7日間の穢れとなる事件が発生。内裏の造営に携わっていた国司の為憲が遷宮を遅らせるために行った、との噂が立ったという[6]。
源順に師事し、文章・漢詩・和歌に秀で、『本朝文粋』に受領申文を載せ[1]、『本朝麗藻』『類聚句題抄』などに漢詩作品を、『拾遺和歌集』(1首)に和歌作品を残している。そのほか『口遊』『世俗諺文』などの教養書も撰している。また仏教にも造詣が深く、『三宝絵詞』『空也誄(くうやるい)』などを撰している。
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