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建築家 ウィキペディアから
渡辺 譲(わたなべ ゆずる、安政2年10月17日(1855年11月26日) - 1930年9月7日)は、明治時代の建築家。創業時(初代)の帝国ホテルの設計者としても知られる。工手学校(現 工学院大学)造家学科教員。
四谷に生まれる。父は幕臣の渡辺升である。議院建築設計コンペに当選したことで知られる渡辺福三は弟。
1880年、工部大学校造家学科を卒業(第2回生)し、卒業後は工部省技手、つづいて内務省営繕課技手となった。
1886年から1887年、内閣臨時建築局技師となり、官庁集中計画の一環で妻木頼黄らとともにドイツへ留学する。シャルロッテンブルグ工学大学で学ぶ。1887年から欧州各国を視察(1890年まで)。
1888年(明治21年)に帰国後、裁判所建築主任、工事部勤務(1891年まで)。海軍省(コンドル設計)や業余で帝国ホテルの建設に携わった。一時官職を離れ、清水組技師長を務めた(1891-1894年)。
日清戦争直前の1894年、海軍の建築技師になり、海軍省海軍技師呉鎮守府経理部建築科長として呉のドック建設に当たった。後に技師最高位の海軍工務監に昇進する。1899年、工学博士号を取得。
1900年 (明治33年) 欧米出張。1901年、舞鶴鎮守府経理部建築科長任、1904年には辰野金吾に代わり1年間建築学会会長に就任。1905年横須賀海軍経理部建築科長兼任。1908年 (明治41年) 海軍経理学校教官(兼任) 。
1911年に海軍を辞し、同年7月8日、宮内省より錦鶏間祗候を拝命した[1]。同年から浅野総一郎に請われ浅野造船および浅野関連の建築顧問を務めた。
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