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日本のバレーボール選手 (1986-) ウィキペディアから
福井県足羽郡美山町(現在の福井市)出身。ママさんバレーをしていた母親の影響で、上宇坂小学4年(上宇坂スポーツ少年団)よりバレーボールを始める[3]。福井工業大学附属福井高等学校を経て、東海大学に進学。
2007年、大学在学中の20歳で、全日本代表オポジットに選出。2007年ワールドリーグ東京大会に緊急招集され、翌日の試合でいきなり代表デビューを飾った。2007年ワールドカップでは、初戦の勝利に貢献するなど活躍した。12月16日に青山記念体育館で行われた全日本インカレ大会では、全日本監督の植田辰哉が駆けつけて激励の演説をした。
2008年、北京オリンピック世界最終予選を経て、福澤達哉とともに最年少の21歳で北京オリンピック代表に選出され出場。
2009年4月、パナソニックパンサーズに入団。11月に開催されたワールドグランドチャンピオンズカップでは全日本男子32年ぶりの国際大会の銅メダル獲得に貢献し、ベストスコアラー賞を獲得。Vプレミアリーグではパナソニックの2年ぶりの優勝に貢献し、最高殊勲選手賞、スパイク賞、ベスト6を獲得した。
2010年、黒鷲旗大会のパナソニックの3連覇に貢献し、2年連続黒鷲賞を獲得した。
左手甲を負傷中のため、2013年ワールドリーグのメンバー(22名)には選出されなかった[4]。その後、同年9月の2014年世界選手権アジア最終予選のメンバー(12名)には選ばれた。
2013/14Vプレミアリーグにおいて、パナソニックの2年ぶり優勝に大きく貢献し、自らも二度目となるMVPとベスト6、スパイク賞を受賞した[5]。
2015年8月に開催された第18回アジア選手権で優勝に大きく貢献し、自らもMVPに輝いた[6]。
2018年2月18日に行われたVファイナルステージ・対JT戦の第一セットで、アタックし着地した際に右膝を捻り、右膝前十字靱帯および内側側副靱帯の断裂に加え、半月板損傷、軟骨損傷で全治12か月という大怪我を負う[7][8]。その後手術を数度繰り返すこととなるが、リハビリを重ねて復帰を果たし、2019-20シーズンより2シーズン連続でV.LEAGUEの敢闘賞を受賞している。
2021年、東京オリンピックで、若きエース・西田有志の控えではあったが、試合に出場して日本代表の準々決勝進出に貢献[9][10]。準々決勝でブラジルに敗退。この試合をもって日本代表を引退する意向をInstagramで発表したが、現役続行の意向も示した[11]。
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