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日本のスポーツキャスター、タレント、元スピードスケート選手 (1974-) ウィキペディアから
清水 宏保(しみず ひろやす、1974年〈昭和49年〉2月27日 - )は、日本の元スピードスケート選手、医学者、スポーツキャスター、タレント、実業家。学位は博士(医学)(弘前大学・2023年)[1]。
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基本情報 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
誕生日 | 1974年2月27日(50歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 北海道帯広市 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 162 cm | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 70 kg | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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北海道帯広市出身。有限会社Shimizu所属 兼取締役。1998年長野オリンピックで金メダル1個、銅メダル1個、2002年ソルトレークシティオリンピックで銀メダルを獲得した。身長は162cm。
実家は建設会社。葵幼稚園、帯広市立栄小学校、帯広市立帯広第一中学校、白樺学園高等学校、日本大学文理学部卒業。三協精機、NECを経て、現在は株式会社コジマに所属するプロのスケーターである。
1993年2月、イタリア・バゼルガ・ディ・ピネで行われたスピードスケートW杯に18歳で初出場し初優勝という快挙を達成。その直後の世界スプリント=群馬県伊香保では総合3位に入り、小柄な世界トップスケーターとして注目を集める。
1994年リレハンメルオリンピック、1998年長野オリンピック、2002年ソルトレークシティオリンピック、2006年トリノオリンピックと、4度の冬季オリンピックに出場している。長野では500mで日本のスピードスケート選手としては初となる金メダル(冬季オリンピック個人競技では1972年札幌オリンピックの笠谷幸生以来26年ぶり)、1000mでも銅メダルを獲得、ソルトレイクシティの500mでもトップと0.03秒差の銀メダルを獲得した。ワールドカップ(W杯)通算優勝回数は34回である。
金メダルを獲得した長野オリンピック直後の1998年4月、清水は所属していた三協精機を退社し、日本で初めての「プロ」(スピード)スケーターとなることを宣言。その後NECがスポンサーとして名乗り出る。9月に同社と社員契約を結ぶ[2]一方で、複数の企業とスポンサー契約を交わすプロアスリート活動を始めた。
1993年の世界デビュー以降、10年以上にわたって日本スケート界を牽引してきたが、2005年の世界距離別選手権で2位になったのを最後に世界では目立った成績を残せなくなった。男子短距離では、加藤条治、及川佑、長島圭一郎など「ポスト清水」と言われる世代が実力をつけたこともあり、選手としての去就に関心が集まるようになる。2008年3月限りで契約していたNECを退社、新たにコジマと契約を結んだ[3]。
2009年12月に長野市のエムウェーブで開催された2010年バンクーバーオリンピック代表選考会で500m7位、1000m9位に終わって代表を逃し、「去就については改めてコメントしたい」と語った。マスコミでは「現役引退の決意を固めた」と報じられた[4]。2010年2月19日、今シーズン限りでの現役引退が所属するコジマより正式に発表された。3月5日に引退会見を開き、バンクーバーオリンピックの代表選考が終わった際に引退を決意したと述べた。選手生活については「たくさんの人に支えられ、幸せなスケート人生だった」「唯一の心残りは(500mで)33秒台を出せなかったこと」と振り返り、今後については未定としながらも「いろいろ勉強して、メダルを目指す選手にアドバイスする立場になっていければ」と話している[5][6]。
2009年12月にモデルの高垣麗子との交際がお互いのブログにより公表され、その後2010年3月31日に婚姻届を出した[7]。
2010年5月、株式会社two.seven設立。代表取締役社長就任。
2011年4月から日本大学大学院グローバル・ビジネス研究科グローバル・マネジメント専攻に入学、2013年3月に修士課程を修了した後も研究生として在学[8]。一方で、テレビ中継解説や『情報満載ライブショー モーニングバード!』(テレビ朝日)のレギュラーゲストコメンテーターとして参加(選挙立候補のため降板)、2011年4月からは『スポーツドミンゴ』(NHK BS1)で初めてスポーツ番組のキャスターを担当した。2013年4月にはフジテレビ系のテレビドラマ『間違われちゃった男』へゲスト出演、初のドラマ出演を果たした[9]。
2012年に行われた第46回衆議院議員総選挙に新党大地公認で北海道1区から出馬するが[11][12]、落選。
2014年11月、株式会社two.sevenを北海道札幌市へ移転[14]し、リハビリ型通所介護施設リボンリハビリセンターを開設。その後、通所介護事業所・訪問看護ステーション・定期巡回随時対応型訪問介護看護事業所・サービス付き高齢者向け住宅・スポーツジム複数店舗を開設。
2015年4月、弘前大学大学院医学研究科博士課程に入学した[15]。
2017年4月、北海道千歳リハビリテーション大学客員教授就任。7月に十勝で行われたGRネッツカップ・ヴィッツレースでモータースポーツデビュー。6位に入賞した[16]。
2021年は国際ラリー経験豊富な寺田昌弘をコ・ドライバーとして、ヴィッツでTGRラリーチャレンジにも挑戦する。
2024年1月、株式会社two.seven代表取締役会長に就任。
幼少の頃より気管支喘息を持つ。喘息をうまくコントロールして五輪に出場しメダル獲得までをも果たしたスポーツ選手として、代表的な長期管理喘息治療薬の発売元であるグラクソ・スミスクライン社の宣伝に起用されているほか、喘息関係の学会などにも招聘されている。
固定自転車により失神寸前まで追い込むトレーニングをおこなっていた。また、自らが使う道具、特にスケート靴に強いこだわりを持つ。長野五輪前にはスラップスケートの靴底にカーボンファイバーを使い剛性を高めることを思いつき、「カーボンファイバーに関する高い加工ノウハウを持っている」との理由から、本来レーシングカーの製造会社である東京R&Dに特注してカーボンファイバー製のスケート靴を作らせたほどであった(長野五輪ではその東京R&D製のスケート靴を使用し金メダルを獲得している)。
上記の通り、1998年にプロ宣言をおこなう。スピードスケートをメジャースポーツにすることを望んでいた清水は、不況により企業のスケート部が相次いで消滅している現状を憂えていた。清水のこの行動は、スケートのみに集中できる環境を作るのと同時に、企業が選手を抱え込む現在のスケート界の体質にも一石を投じるものであった。
1996年3月カルガリーにおいて35秒39の男子500m世界新記録を樹立。スプリント競技は長身選手に有利というそれまでの常識を覆し、この種目の第一人者となる。その後も記録更新を繰り返し、一時期ジェレミー・ウォザースプーンに抜かれるものの、2001年3月10日世界距離別選手権=ソルトレイクシティにおいて自身4度目の記録更新となる34秒32を記録し、世界記録保持者に返り咲いた。この記録は、2005年11月に加藤条治(34秒30)に破られた(現在の世界記録はジェレミー・ウォザースプーンの34秒03)。
清水が前半の「ロケットスタート」でタイムを出すタイプであるのに対して、加藤条治は世界一と称されるコーナーワークの技術が持ち味。加藤が高校生の頃から、清水はその技術の高さに一目置いており、加藤がショートトラックからコーナーワークを磨いていたことを聞きつけると自分の練習にもショートを取り入れるなど、その技術の習得に意欲を見せた。加藤条治とはライバル関係にあるが、プライベートでは仲が良い。
加藤がバンクーバーオリンピックスピードスケート男子500mにおいて銅メダルを獲得した際、清水は朝日新聞社のコラムにて、手厳しい筆致でつづられた、激励ともとれるメッセージを寄せている[17]。
年 | 冬季オリンピック | 世界距離別選手権 | 世界スプリント | ISUワールドカップ |
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1993 | 3位 | |||
1994 | 5位 (500m) 19位 (1000m) | 4位 | ||
1995 | 2位 | 総合優勝 (500m) | ||
1996 | 優勝 (500m) | 2位 | 総合5位 (500m) | |
1997 | 3位 (500m) | 4位 | 総合優勝 (500m) | |
1998 | 優勝 (500m) 3位 (1000m) | 優勝 (500m) 3位 (1000m) | 4位 | 総合3位 (500m) |
1999 | 優勝 (500m) 2位 (1000m) | 3位 | ||
2000 | 優勝 (500m) 7位 (1000m) | 3位 | 総合2位 (500m) 総合5位 (1000m) | |
2001 | 優勝 (500m) 棄権 (1000m) | 2位 | 総合優勝 (500m) | |
2002 | 2位 (500m) | 9位 | ||
2003 | 2位 (500m) 6位 (1000m) | 5位 | 総合6位 (500m) | |
2004 | 9位 (500m) | 7位 | 総合4位 (100m) 総合3位 (500m) | |
2005 | 2位 (500m) | 10位 | 総合5位 (500m) | |
2006 | 18位 (500m) | 29位 | ||
2007 | 総合20位 (100m) 総合20位 (500m) | |||
2008 | ||||
2009 |
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