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埼玉県出身の元競艇選手 ウィキペディアから
浅見 敏夫(あさみ としお、1936年5月27日 - )は、埼玉県出身の元競艇選手。
息子の昌克は現役のボートレーサー[1]。
進学校・浦和西高校から埼玉大学に進学したが、1年後に上智大学へ転入。上智大も父親の病気の為に中退し、競艇選手の道を選ぶ。1959年11月に連合会養成6期生として選手登録され、彦坂郁雄・岡本義則・高田登らと共にデビュー。同年夏には5期生として北原友次、加藤峻二がデビューしている。モットーが「レースはケンカ」と少々荒かったが、闘志剥き出しの豪快なレースぶりから「ダンプ」と呼ばれ、多くのファンから共感を呼んだ[2]。コーナーでの突っ込みは攻撃的で、1967年にホームプールの戸田で開催された関東地区選手権競走で記念初優勝を飾る。1968年の平和島開設14周年記念競走で2勝目をマークすると、1969年の第16回全日本選手権競走(住之江)では優出を果たす(2号艇2コース進入で5着)。1971年には日吉昭博と共にヨーロッパへ遠征し、5月31日から7月5日までにわたって欧州各地を転戦。ハイドロのレースでは当初は散々な成績であったが、6月27日にチェコスロバキア(現・チェコ)で行われた「チェコ国際レース」で総合優勝を飾る[3]。同行した日吉も同20日に西ドイツで行われた「プレジデントカップレース」で完全優勝を飾り、チェコ国際レースでも総合2位に入る[3]。賞杯を手中に収めるごとに日本(軽量級)バッシングが始まり、日本人のような軽量級ドライバーにはウェイトを必要とするルールが採用された[3]。最後の優出は1998年5月18日の常滑一般戦(4号艇5コース進入で4着)で[4]、1999年12月26日の戸田一般戦「ゴールドカップ デイリー杯争奪」初日5Rで最後の勝利となる通算2131勝目(1号艇1コース進入)を挙げ[5]、同31日・最終日の6Rが最後の出走となった(1号艇1コース進入で3着)[6]。同年引退。
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