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『日本書紀』巻第十九によると、欽明天皇即位当時の百済の国王、聖明王は伽耶諸国(任那)の復興に意欲的で、欽明天皇2年4月(541年)に任那復興会議を開き、安羅・加羅・卒麻など7ヶ国の伽耶諸国(任那)の旱岐らからなる代表者たちと吉備臣とを集めて、昔から百済と任那の諸国とは兄弟同然の仲であり、ともに協力して新羅と対抗すべきであると言った[1]。7月には、百済使を安羅の日本府へ派遣し、伽耶諸国の足並みの乱れを憂えたり、安羅の日本府の河内直らが新羅と通じていることを責めている[2]。王は百済人と日本人との混血の紀弥麻沙(き の みまさ)らを重用していた。
大和政権は、欽明天皇4年11月(543年)に百済に津守連を派遣し、
任那の下韓(あるしから)に在(はべ)る、百済の郡令(こほりのつかさ)、城主(きのつかさ)、日本府(やまとのみこともち)に附くべし。
任那の下韓にある百済の郡令・城主は引き上げて日本府に帰属させる。 — 宇治谷孟 訳、日本書紀
と言った。併せて、詔書として、 「爾(なんじ)はしばしば上表し、今にも任那を建てると言ってから、十年余りになる。未だに成就していない。任那は爾の国の棟や梁である。もし、棟や梁が折れたら、誰が家屋をつくるのだろうか。朕が思うことはここにある。爾はすみやかに任那を復興せよ。汝がすみやかに任那を建てれば、河内直らはおのずと引き上げるに違いない」
とも伝えた[3]。このときの津守連が、『日本書紀』の後の箇所で引用された『百済本記』によると、「己麻奴跪」という名前で、言葉が訛っているため、本名であるかどうかはわからない、という註がつけられている。さらに同条の『日本書紀』本文では、同時に印奇臣(いがのおみ)が新羅に派遣されたことになっている[4]。
この時、3人の佐平や群臣の反対により、百済の郡令・城主を引き上げさせることはできなかったが、聖明王は任那復興に再度尽力することになった[3]。12月に聖明王は再度群臣の意見を聞いたが、任那の執事(つかさ)や旱岐を呼んで会議を開くことと、障害は河内直と阿賢移那斯(あけんえなし)・佐魯麻都(さろまつ)らが安羅に存在することだろう、本国に移すべきだという結論に至った[5]。
その後、百済は任那の執事と日本府の執事を3度召喚したが、3度ともやってこなかった。3回目は代理の下賤のものが送られてきた[6][7][8]。このため、聖明王は大和政権に事態を説明することができず、津守連はそのまま百済に逗留することとなった。この間に、紀弥麻沙・己連(これん)・物部用奇多(もののべ の ようがた)らが天皇のもとに派遣され、任那再興のための計画を立てるようにとの、催促があったという[4]。
以上のようないきさつがあったのちに、欽明天皇5年11月に二度目の任那復興会議が開かれた[9]。
津守連氏は、ほかにも皇極天皇の時代に高句麗に派遣された大海(おおあま)[10]、斉明天皇の時代に遣唐副使となった吉祥(きさ)[11]など、対外関係で活躍したものを多く輩出している。天武天皇13年12月に宿禰と改姓した[12]。
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