河野季通
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生涯
河野氏の一族とされる河野政通の嫡男として生まれる。父同様、安東氏(政季・忠季)に臣従して「季」の1字を賜い季通と名乗る。
父とともに蝦夷地開拓を行っていたが、それに反発したアイヌの軍勢によって永正9年(1512年)に宇須岸河野館を攻撃され、父の政通と3歳になる娘を逃した後に自害した。一本木(現・函館市若松町、旧・函館市立若松小学校、現・函館市総合福祉センターの横)にて毒矢で戦死の説もあるが、真偽のほどは分からない[1][2]。
娘の蔦姫は乳母に背負われ松前に逃げ、後に蠣崎季広の正室となり、松前慶広等を産んだ。慶長6年(1601年)に92歳で亡くなったと言われている[2]。季通死後、河野氏の名跡は断絶していたが、慶広の六男が継ぎ、河野時広と名乗ったが、後に名字を松前に戻して、松前景広と名乗った。以後は河野系松前氏として松前藩の藩政に貢献した。
脚注
参考文献
関連項目
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