柿元嘉和
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来歴
要約
視点
競馬学校第1期生では柴田善臣・石橋守・須貝尚介・田島裕和・林満明・武藤善則・岩戸孝樹・上籠勝仁・谷口一明と同期になり、1985年3月に騎手免許を取得[1]。
1年目の1985年は同9日の小倉第1競走・シンリョクエース(16頭中14着)で初騎乗を果たし、翌10日の小倉第4競走・ラッキーナムラで初勝利を挙げる[2]。5月12日の京都第5競走4歳未勝利ではローベルタイカンに騎乗して3着に入ったが、勝ったレデイライアンは鞍上の田島が初勝利で、3馬身差2着には須貝が騎乗するラブリーライラックであり、同期の上位独占となった[3]。6月29日・30日の中京では初の2日連続勝利、7月6日の中京では初の1日2勝[4] [5]を挙げるなど、初年度から2桁の14勝[6]をマーク。1988年まで4年連続2桁勝利を記録するが、結局この年の14勝が自己最多となった[6]。
1992年には5月2日の京都第3競走4歳未勝利を16頭中14番人気のウインクエルフ、10月25日の福島第12競走4歳未勝利8番人気のコンコルドホーラーで逃げ切り、共に万馬券の波乱となった[7] [8]。
1996年には「九州産馬の天皇賞」と形容される[9]霧島賞を須貝彦三厩舎のカシノリュウジンで逃げ、同厩・同馬主で須貝尚が騎乗したカシノテンリュウとクビ差2着に粘る[10]。枠連・馬連は万馬券[10]となり、中央で行われた最後の霧島賞[11]は1期生のワンツー[10]となった。
1997年には秋の福島で岩元市三厩舎のファンドリロバリーに和田竜二から乗り替わり[12]、10月18日の福島第11競走飯坂特別ではスノーエンデバーに勝利[12]したほか、福島記念ではヤシマソブリン・アロハドリームを抑えてテイエムオオアラシ・マイネルブリッジの間に割って入る2着[13]であった。
1997年は9年ぶりで自身最後の2桁勝利となる10勝[6]をマークし、1998年11月29日の京都第8競走4歳以上500万下・セフティーフェローで通算100勝[14]を達成。
1998年にはコマンダーインチーフ産駒タイクラッシャーで新馬はマイケル・ロバーツ騎乗のアドマイヤコジーンから9馬身差の2着[15]に入り、500万下ではワンダーファングに勝利し、明けて1999年にはシンザン記念でフサイチエアデールの5着に入った[16]。
1999年には土門一美厩舎のシアトルブリッジで条件戦を3連勝し[17]、2000年の平安ステークスではウイングアロー・バトルライン・マイターンを抑えてオースミジェット・ゴールドティアラに割って入る2着であった[18]。
2000年と2001年は2年連続0勝に終わったが、2002年は2勝を挙げる[6]。
2003年は3月9日の阪神第5競走3歳未勝利・ゼンノストライカーが中央での最後の勝利、翌10日の高知第10競走龍馬盃(JRA指定交流)・スリーフラッシュが地方を含めての最後の勝利となる[19]。
2003年4月25日の福島第12競走文知摺特別・スターペスシンタ(14頭中2着)が最後の騎乗[19]となり、その後は病気療養のため入院[1]。
騎手成績
脚注
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