松下年宏
日本のサッカー選手 ウィキペディアから
松下 年宏(まつした としひろ、1983年10月17日 - )は、鹿児島県鹿児島市出身[3] の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー及びディフェンダー。
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
愛称 | ワンちゃん[1][2] | |||||
カタカナ | マツシタ トシヒロ | |||||
ラテン文字 | MATSUSHITA Toshihiro | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1983年10月17日(41歳) | |||||
出身地 | 鹿児島県鹿児島市 | |||||
身長 | 174cm | |||||
体重 | 70kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF / DF(SB) | |||||
利き足 | 右足[1] | |||||
ユース | ||||||
1999-2001 | 鹿児島実業高校 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
2002-2006 | ガンバ大阪 | 29 | (0) | |||
2006-2009 | アルビレックス新潟 | 106 | (9) | |||
2010 | FC東京 | 21 | (1) | |||
2011-2013 | ベガルタ仙台 | 78 | (5) | |||
2014-2016 | 横浜FC | 74 | (9) | |||
2017-2018 | 鹿児島ユナイテッドFC | 15 | (1) | |||
通算 | 323 | (25) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
要約
視点
兄の影響でサッカーを始める[4]。
1999年に鹿児島実業高校に進学。3年時のインターハイ及び選手権では、同期の赤嶺真吾、立石飛鳥、登尾顕徳と共にベスト4入り[4]。同年、明治大学サッカー部のセレクションを受け合格していたが[4]、ガンバ大阪からオファーを受け、高校卒業後の2002年、G大阪に入団。主に右サイドバックとして[4]ルーキーイヤーから多くの試合にベンチ入りし、Jデビューも果たした。
2005年には自己最多の14試合に出場するも、2006年は右WBに加地亮が加入したことなどにより出場機会に恵まれず、公式戦の出場機会確保と気持ちをリセットするために[5] 同年6月から2007年12月までの1年半という長期の期限付き移籍でアルビレックス新潟へ移籍した[6][7]。チーム屈指の機動力と多彩なキックで信頼を集め[1]、2008年の移籍期間延長を経て[8][9]、2009年より完全移籍[10][11]。2009年は主にインサイドハーフで起用され[12]、リーグ戦全試合出場を果たした。
2010年、新潟との契約を満了し[13]FC東京へ完全移籍[14][15]。FC東京では万能型MF[16] とされ、左サイドハーフを主ポジションとしたが[17][18]、チームがより攻撃に比重を傾ける場合にはサイドバックに配されることもあり、また、ボランチとして起用されることもあった。正確なプレースキックに自信を持ち[19] セットプレーのキッカーも任されていた他、チームメートの羽生直剛からは「試合終盤でも長い距離を走(ってチャンスを作)れる能力がある」[20] とスタミナや運動量を評価され、大熊清監督からも「90分攻守で運動量を出すことができる」[21] と認められていたが、同年9月以降の大熊体制下ではリーグ戦での出場機会を激減させていた[22]。なお、同年10月10日に元アナウンサーの枦山南美と結婚[23][24]。
2011年、試合に出られない状況を変えたいと[25]ベガルタ仙台へ期限付き移籍[26][27]。レギュラー確保には至らなかったものの、出場停止を除く全試合にベンチ入りし[28] チームの上位進出に貢献[29]。2012年より完全移籍へと移行[30][31]。得意のボランチを中心に複数ポジションをこなし、主力欠場の穴埋め役や[2] スーパーサブとして重宝された[32]。2013年をもって退団。
2014年より横浜FCへ完全移籍[33][34]。ゲームメーカー役として攻守に貢献し[35]、8月の5連戦では2ゴール2アシストの活躍で同月のリーグMVPを受賞[35]。同年は主に右サイドハーフに入り、チーム最多のアシストとシュート数を記録した[36]。精神的主柱の一人としても奮戦したが[37]、2016年にはリーグ戦10試合の出場に留まり、同年限りで契約を満了[38]。
2017年、高校同期の登尾がGMを務める[39] 地元・鹿児島の鹿児島ユナイテッドFCへ完全移籍[40]。 同年9月5日、トレーニング中に負傷。左ひざ内側半月板損傷で全治約2カ月の診断を受けた[41]。以降、同シーズンは出場機会は無かった。 2018年シーズン終了を以て現役を引退。
2019年2月、鹿児島のU-15コーチに就任[42]。2020年まで務め、同年末に退団した。
2021年からは新潟のU-15コーチに就任した[43]。
エピソード
所属クラブ
- 川上スポーツ少年団[4](鹿児島市立牟礼岡小学校[45])
- 1995年 - 1999年 鹿児島市立城西中学校[4]
- 1999年 - 2002年 鹿児島実業高等学校
- 2002年 - 2008年
ガンバ大阪
- 2009年
アルビレックス新潟
- 2010年 - 2011年
FC東京
- 2011年
ベガルタ仙台 (期限付き移籍)
- 2011年
- 2012年 - 2013年
ベガルタ仙台
- 2014年 - 2016年
横浜FC
- 2017年 - 2018年
鹿児島ユナイテッドFC
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2002 | G大阪 | 24 | J1 | 5 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 |
2003 | 5 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | |||
2004 | 4 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 7 | 0 | |||
2005 | 14 | 0 | 7 | 0 | 3 | 0 | 24 | 0 | |||
2006 | 1 | 0 | 0 | 0 | - | 1 | 0 | ||||
新潟 | 35 | 19 | 3 | - | 2 | 0 | 21 | 3 | |||
2007 | 7 | 25 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 29 | 0 | ||
2008 | 28 | 2 | 5 | 0 | 0 | 0 | 33 | 2 | |||
2009 | 34 | 4 | 6 | 2 | 3 | 1 | 43 | 7 | |||
2010 | FC東京 | 8 | 21 | 1 | 4 | 0 | 3 | 1 | 28 | 2 | |
2011 | 仙台 | 26 | 2 | 4 | 0 | 3 | 0 | 33 | 2 | ||
2012 | 26 | 1 | 7 | 1 | 2 | 0 | 35 | 2 | |||
2013 | 26 | 2 | 2 | 1 | 3 | 1 | 31 | 4 | |||
2014 | 横浜FC | 24 | J2 | 29 | 5 | - | 1 | 0 | 30 | 5 | |
2015 | 35 | 4 | - | 2 | 1 | 37 | 5 | ||||
2016 | 10 | 0 | - | 2 | 1 | 12 | 1 | ||||
2017 | 鹿児島 | J3 | 14 | 1 | - | 2 | 0 | 16 | 1 | ||
2018 | 1 | 0 | - | 1 | 0 | 2 | 0 | ||||
通算 | 日本 | J1 | 234 | 15 | 42 | 4 | 21 | 3 | 297 | 22 | |
日本 | J2 | 74 | 9 | - | 5 | 2 | 79 | 11 | |||
日本 | J3 | 15 | 1 | - | 3 | 0 | 18 | 1 | |||
総通算 | 323 | 25 | 42 | 4 | 29 | 5 | 394 | 34 |
- その他の国際公式戦
- 2010年
- スルガ銀行チャンピオンシップ 1試合0得点
- 出場歴
指導歴
- 2019年 - 2020年 鹿児島ユナイテッドFCU-15鹿児島 コーチ
- 2021年 アルビレックス新潟U-15 コーチ
- 2022年 - V・ファーレン長崎 U-12 監督
タイトル
クラブ
- ガンバ大阪
- Jリーグ ディビジョン1:1回 (2005年)
- FC東京
- スルガ銀行チャンピオンシップ:1回 (2010年)
個人
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.