李之藻
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李 之藻(り しそう、拼音: 、1571年10月13日(隆慶5年9月25日)[1][注釈 1] - 1630年11月1日(崇禎3年9月27日)[2])は、中国明代末期の学者・官僚・キリスト教徒。徐光啓らと同様にイエズス会士と交流して西洋の学問を中国に紹介した。特に叢書『天学初函』の編者として知られる[3]。
洗礼名(およびイエズス会士からの呼び名)はレオ(羅: Leo)またはレオン(西: León、葡: Leão)。字は我存・振之。号は洗礼名にちなむ涼庵など[4]。
浙江省杭州府仁和県の人。1598年に進士となり南京六部の工部に勤めた[5]。1604年、大運河の工事を監督したが、誹謗によって左遷されたのを機に帰郷した[5]。1612年、南京太僕寺少卿となった[4]。1621年から1623年の間、光禄寺少卿となり、後金軍への防備のため北京で西洋式大砲の製造に携わった[6]。
学者として多くのイエズス会士と交流し、とくにマテオ・リッチが1610年5月に没するまでの約10年間を共に過ごした[7]。1602年には、リッチが作成した『坤輿万国全図』を公刊して世に広めた[4]。リッチによれば、李之藻は宴会や棋戯に耽る軽薄な人間だったという[8]。しかし1610年初頭、北京で重病に倒れた際、リッチに看病されて深く感動し、同年洗礼を受けた[9][10]。なお、それまで洗礼を受けなかった一因に妾の存在があったが、これをどう解決したかは不明である[5]。
『渾蓋通憲図説』は、燕行使により李氏朝鮮にも伝えられた[11]。
『頖宮礼楽疏』は、江戸時代の日本に輸入され、荻生徂徠らに読まれた[17]。
『天学初函』は、江戸時代初期・寛永年間に輸入されたが、禁書に認定された[18]。江戸時代後期・明和年間に誤って再輸入されると、書物改役の向井兼美(向井元升の末裔)が解題の『天学初函大意書』を著した[19]。また禁書ながら蓬左文庫に一部所蔵されている[20]。
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