本間順治
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本間順治(ほんま じゅんじ、1904年(明治37年)4月16日 - 1991年(平成3年)8月29日)は、日本の刀剣学者。文学博士、号は薫山(くんざん)。古刀研究の権威であり、本間美術館初代館長、日本美術刀剣保存協会会長などを務めた。山形県飽海郡(現:酒田市)出身。
略歴
1904年(明治37年)4月16日生。酒田本間家出身(9代当主・本間光弥の甥)。本間家は俗謡にうたわれたほどの日本有数の豪商。曽祖父の本間家7代当主・本間光美が大の刀好きで、幼少の頃より光美の日本刀の手入れを間近に見て育つ[1]。外祖父も刀の目利きとして知られ、父も順治を目利きにすべく激励し、本家当主である伯父や従兄弟も大いに援助した[1]。
國學院大學在学中、国文学と日本美術史を学ぶかたわら刀剣の鑑識を本格的に学びたく、遠縁で愛刀家の三矢宮松に相談し、今村長賀の高弟である刀剣鑑定師の神津伯(本職は海軍省水路部技師)に弟子入り、5年間修業する[1]。三矢と荻野仲三郎の推薦により、大学卒業後は文部省の国宝調査嘱託となり、鑑識の実力をつける[1]。
戦後、国立博物館(現・東京国立博物館)調査課長となり、1947年(昭和22年)には本間美術館初代館長も務める。「昭和の刀狩り」と言われたGHQによる日本刀接収の際には、日本刀の美術的価値を説き、粘り強く交渉して多くの刀を救った[2]。1950年(昭和25年)の文化財保護法施行とともに文化財保護委員会(現:文化庁)美術工芸課長に就任、1960年(昭和35年) に退任後は専門審議会委員を務めた[1]。
日本美術刀剣保存協会設立し、同協会初代会長。 1991年(平成3年)8月29日 に死去。
号の「薫山」の由来について、弟子の渡邉妙子(佐野美術館館長)は、本間自身の話として以下のように述べている。本間は刀を見て納得した時に鼻をクンクンと鳴らす癖があり、文化財保護委員会の同僚から「クンさん」という綽名を付けられ、これが「薫山」の由来であるという[3]。本間薫山は新刀研究の第一人者である佐藤寒山とともに「両山」と称された[2]。
家族
- 曽祖父・本間光美(1836-1913) ‐ 本間家7代当主。同6代当主・光暉の二男。幕末の庄内藩の軍用金を賄い、維新後、酒田県権大属、司農方生産掛、勧農掛などを経て40歳で隠居、1888年に本立銀行を設立し頭取[4](同行は1928年に出羽銀行に吸収され、のち荘内銀行に統合[5])。日本刀愛好家として知られ、生涯に約2000振りを蒐集、順治に影響を与えた[1]。
- 祖父・本間光輝(1854-1922) ‐ 本間家8代当主。光美の長男。
- 伯父・本間光弥(1876-1929) ‐ 本間家9代当主で光輝の長男、本立銀行頭取[6]。姻戚に須藤憲三(長女の夫の弟の岳父)[7]。
- 母・すなを ‐ 光輝の娘で、光弥の妹[8]
- 父・本間敬冶(旧姓服部、1877-) ‐ 本立銀行取締役。鶴岡藩士・服部弥惣の二男で、光輝の婿養子[8]。父の弥惣は参勤交代で上京の際、町研師宅に入り浸って名刀に触れ、目利きとして知られ、光美の日本刀コレクションに名刀を加えた[1]。
- 弟・本間祐介
- 妻 ‐ 酒井了明の曾孫で、黒崎研堂の孫、黒崎幸吉の姪。1928年に結婚。大伯父大伯母に酒井了恒、酒井調良、白井久井、叔母の夫に三矢宮松。[9]
- 子・本間紀男(1932-2015) ‐ 彫刻家、仏像彫刻研究家、工学博士。東京芸術大学彫刻科卒。[10][11]
著作物
著書
共著
編纂
共編
校閲
- 1975年(昭和50年) - 『日本刀の話』 石井昌国(編著) 雄山閣出版
講述
交流のあった愛刀家
脚注
出典・参考文献
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