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本能寺(ほんのうじ)は、上方落語の演目の一つである。
芝居小屋で「三日太平記」が演じられた。本能寺の変、武智光秀が主君小田春永へ起こした謀反を主題とした人気狂言である。いよいよ本能寺春永討死の場。回り舞台が転換すると、そこは本能寺の裏手にある藪だたみ。手負いになった森蘭丸が光秀の軍兵相手に大立ち回りを演じ、劇はクライマックスに達する。そんなとき、客席にいる田舎のお婆さんが持っていた袋から、孫への手土産の生きたイナゴが逃げ出し、舞台はイナゴだらけ、芝居は滅茶苦茶である。芝居を中断した役者たちがぼやく。「えらいイナゴやで。」「せやけど、なんでこんなに出てくるねん。」「大かた、客が青田やからやろ。」
サゲの「青田」とは芝居用語で「ただ見客」のことで、まだ収穫時期を迎えていない青い田圃が金にならないことに由来する。
長らく途絶えていたのを、3代目桂米朝が花柳芳兵衛(林芳男 元落語家初代桂小春団治)から伝授してもらって、1981年(昭和56年)に復活した。芝居のパロディーではなく、芝居そのものを演じなければならないため、芝居の素養がないと出来ない難しい噺である。なお、小佐田定雄と中川彰の調査でモデルの狂言は「三日太平記」(近松半二作)というのが定説となっている。[1]
大道具を用い噺の途中から歌舞伎の演出をとる東京と違って、上方の芝居噺は、東京と同じやり方のものと、扇子、手拭、見台などの小道具のみで人気狂言のダイジェスト版を舞台そのままに高座で演じるものがある。「本能寺」は後者の代表的な演目である。
マクラのあと、「では、これから芝居がはじまります。」と、演者は手拭いを引き幕として、柝の音とともに開けて行く。ここから芝居がはじまりますという演出である。そのあと演者は歌舞伎役者そのままに台詞、所作、立ち回りなどを演じ、見得のあと、簡単なクスグリをいれてサゲとなる。樂屋では下座はもちろん鳴物、ツケ打ちも待機している。
江戸時代後期、初代桂文治により始められ明治期の初代桂文我により完成された上方芝居噺であるが、大正から昭和期にかけ、娯楽が芝居から映画、レビュー、漫才、スポーツ、ラジオ放送など多様化するうち衰退、それに母体となる関西歌舞伎と上方落語の低迷もあって戦後はすっかり廃れていた。
わずかに東京の桂小文治や前述の花柳芳兵衛らが細々と継承していたのを桂米朝、6代目笑福亭松鶴、2代目露の五郎兵衛らの尽力で復活し、現在では「蛸芝居」・「質屋芝居」・「昆布巻芝居」・「そってん芝居」・[瓢箪場」などの上方ものはもちろん、「累草紙」などの江戸の芝居噺が移植されて演じられている。
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