本多忠敬 (山崎藩主)

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本多 忠敬(ほんだ ただたか)は、江戸時代後期の大名播磨国山崎藩の第7代藩主政信本多家8代。

概要 凡例本多忠敬, 時代 ...
 
本多忠敬
時代 江戸時代後期
生誕 寛政5年(1793年
死没 嘉永3年5月30日1850年7月9日
戒名 敬篤院前肥州宰吏譲誉和順道栄大居士
墓所 東京都江東区三好の霊光院
官位 従五位下肥後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
播磨山崎藩
氏族 本多氏(平八郎家)
父母 本多忠居:不詳
兄弟 忠敬忠告忠鄰、木下某室ら
正室本多忠顕
忠鎮小堀政恒正室、青山幸敬正室
養子忠鄰
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生涯

第6代藩主・本多忠居の次男。文化9年(1812年)10月18日、父の隠居により跡を継ぐ。しかし藩邸が焼失するなどして藩財政が再び悪化したため、半知を行なうなどの処置をとった。生来から病弱だったこともあって、天保5年(1834年)11月27日に弟の忠鄰に家督を譲って隠居し、嘉永3年(1850年)5月晦日に58歳で死去した。

系譜

  • 父:本多忠居(1771-1819)
  • 母:不詳
  • 正室:本多忠顕の娘
  • 生母不明の子女
    • 長男:本多忠鎮
    • 女子:小堀政恒正室
    • 女子:青山幸敬正室 - のち松平某室
  • 養子

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