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木下 双葉(きのした ふたば、1910年8月9日 - 1938年8月30日)は、日本の女優である[1][2][3]。本名は光田 貞子(みつだ さだこ)で、初期は本名で活動していた[1][2][3]。
1910年(明治43年)8月9日、東京府東京市本所区押上町(現在の東京都墨田区押上)[2]に「光田貞子」として生まれる[1][2][3]。
1926年(大正15年)、名古屋のキリスト教主義学校である旧制・金城女学校(現在の金城学院高等学校)を卒業し[2]、東京に戻って、松竹蒲田撮影所に入社する[1][2][3]。当時は本名を名乗っていた[1]。1929年(昭和4年)、京都に移り、東亜キネマ京都撮影所に移籍した[1][2][3]。1931年(昭和6年)9月、東亜キネマが経営不振に陥り、福西譲治監督の『霧の中の白蓮』を最後に[4]、同社の業務を代行する会社として設立された東活映画社(東活)に移籍する。入社第1作は、後藤岱山・橋本松男・堀江大生・重政順の共同監督による『薩南大評定 万能篇』であった[4]。翌1932年(昭和7年)、河合映画製作社から移籍した阿部九洲男の売り出し作品、古海卓二監督の『評判影法師』に木下も出演する[1]。この後、木下は阿部九洲男と結婚している[1]。同年10月には東活は早くも解散、人員の受け皿として設立された宝塚キネマ興行に移籍した[1]。さらに翌年の1933年(昭和8年)7月、宝塚キネマで賃金未払いが起き[5]、夫となった阿部九洲男ともども同社を去り、河合映画の後身・大都映画に移籍した[1][3][6]。
大都映画では、幹部女優のひとりとして待遇され、琴糸路と佐久間妙子とともに吉村操監督の『三巴女白浪』(1937年)に出演し、一文字お仙役で評判となった[1]。
1938年(昭和13年)、佐伯幸三監督の『喧嘩屋五郎兵衛』を撮影中、盲腸炎を患って倒れる[1][3]。夫の阿部九洲男は同社の社員一人一人に輸血を依頼し、多くの者が献血に協力するも及ばず、同年8月30日、腹膜炎を併発して死去した[1][3]。満28歳没。わずか10年のキャリアで140作以上に出演した[4]。
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