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日本の大相撲力士 (1923-1969) ウィキペディアから
朝若 佐太郎(あさわか さたろう、1923年1月8日 - 1969年11月25日)は、愛媛県松山市西垣生町出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は中矢 悟(なかや さとし)。最高位は東前頭21枚目(1950年5月場所)。現役時代の体格は168cm、101kg。得意手は左四つ、寄り[1]。
15歳の時に上京し、同郷の元大関・朝潮が率いる高砂部屋へ入門。1939年1月場所で初土俵を踏んだ[1]。
身長170cmに満たない短身で、体重も100kg前後と軽量であったが、そうした体のハンディを克服して順調に出世。
1946年11月場所で新十両に昇進し、以後、暫くはこの地位で一進一退を繰り返した。だが、次第に十両上位でも好成績を残せるようになり、1950年5月場所にて新入幕を果たした[1]。
左四つからの寄りという、正攻法の取り口が身上であった。しかし、新入幕の場所では体力不足や体の小ささもあって苦戦し、4勝11敗と大きく負け越して1場所で十両へ陥落[1]。
その後再入幕を目指すも叶わず、最後は幕下12枚目まで番付を落として1952年1月場所後、29歳で引退した[1]。
引退後は年寄・高田川を襲名し、日本相撲協会では勝負検査役などを務めた[1]。幕内1場所の経験で検査役となるのは当時としては異例だったが[2]1959年から1962年まで3年間務めた。1968年の異動で巡業部主任に就任。
同部屋の後輩で、後に大関へ昇進する前の山と養子縁組を結んでいた時期があった。
1969年11月25日、尿毒症により46歳で死去した。
春場所 | 夏場所 | 秋場所 | ||||
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1939年 (昭和14年) |
(前相撲) | 新序 1–3 |
x | |||
1940年 (昭和15年) |
西序ノ口14枚目 1–7 |
西序二段87枚目 6–2 |
x | |||
1941年 (昭和16年) |
東序二段33枚目 5–3 |
東三段目52枚目 4–4 |
x | |||
1942年 (昭和17年) |
西三段目35枚目 6–2 |
東幕下40枚目 4–4 |
x | |||
1943年 (昭和18年) |
東幕下34枚目 3–5 |
西幕下41枚目 5–3 |
x | |||
1944年 (昭和19年) |
西幕下28枚目 4–4 |
東幕下20枚目 3–2 |
西幕下11枚目 3–2 |
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1945年 (昭和20年) |
x | 西幕下4枚目 1–5 |
西幕下12枚目 優勝 5–0 |
|||
1946年 (昭和21年) |
x | x | 西十両11枚目 6–7 |
|||
1947年 (昭和22年) |
x | 東十両15枚目 7–3 |
東十両4枚目 4–7 |
|||
1948年 (昭和23年) |
x | 西十両6枚目 5–4–1 1引分 |
東十両6枚目 6–5 |
|||
1949年 (昭和24年) |
西十両3枚目 5–8 |
東十両6枚目 6–9 |
東十両9枚目 9–6 |
|||
1950年 (昭和25年) |
西十両3枚目 10–5 |
東前頭21枚目 4–11 |
西十両4枚目 5–10 |
|||
1951年 (昭和26年) |
東十両8枚目 8–7 |
東十両7枚目 4–11 |
東十両13枚目 0–5–10 |
|||
1952年 (昭和27年) |
東幕下12枚目 引退 0–0–15 |
x | x | |||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
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