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昭和のいる・こいる(しょうわのいる・こいる)は漫才協会、落語協会所属の漫才コンビである。略称は「のいこい」。五代目鈴々舎馬風ファミリー。
昭和 のいる(1936年7月23日(88歳)[1]または1942年7月23日(82歳)[2] - )は、突っ込み担当。石川県石川郡吉野谷村出身。本名は、
昭和 こいる(1944年1月26日 - 2021年12月30日)は、ボケ担当。群馬県伊勢崎市出身[3]。本名は、
2021年12月30日、前立腺がんのため、東京都内の病院で死去[4]。77歳没。亡くなる3年前からがんと闘病し、入退院を繰り返しながら高座に上がっており、生前最後の出演は同年11月28日、有楽町・よみうりホールで行われた「来年三月真打決定 鈴々舎八ゑ馬の会ファイナル」での漫談となった[5]。こいるは「最後の力を振り絞った。最後の漫才だろう」と関係者に話していたという[6]。
1964年、学生時代のアルバイト先であった神奈川県川崎市の歌声喫茶「エルサルバドル」で出会う[3]。二人はその店で司会進行を務め、やりとりが面白いということで漫才師の道を勧められる。程なくして獅子てんや・瀬戸わんやを紹介され師事、1966年4月に「花園のいる・こいる」の名前でデビューを果たす。屋号の花園はアルバイトをしていた花園万頭に、のいる・こいるは「苦労を乗り越える」に由来。
当時は演芸ブームの真っ只中で、Wけんじの全盛期で東京漫才も上方に負けない勢いがあった頃である(同期はコント55号、横山やすし・西川きよし等)。
当初の芸名が「女性漫才によく間違われる(「のいる・こいる」→「のり子・こい子」と誤認される)」ということで、一時は師匠の名前をもらい「獅子のびる・瀬戸こえる」に改名。だが、のいるが急性肝炎となり「この名前は縁起が悪い」ということで、師匠たちと交友が厚かった三橋美智也の提案で現在の芸名に改名。
1975年以降は賞レースにも参加し、ダークホースと注目される(当時は「三味線漫才」のさがみ三太・良太と「毒舌漫才」のツービートがライバルと見なされていた)。
1980年初頭の漫才ブームの波には乗れるような芸風ではなく[3]、三橋や二葉百合子の巡業に帯同する[3]。
昇進後、(一部では評価はされつつも)これと言った人気も出ないままベテラン芸人となっていたが、1999年、高田文夫の誘いで出演した[3]フジテレビの『初詣!爆笑ヒットパレード』を切っ掛けに突如大ブレイクを果たす[3]。出番は若手の海砂利水魚の次だったが[3]、舞台袖の西川きよしや高田文夫にも大ウケし、昭和のいる・こいるのファンだったという玉置浩二に曲を作ってもらいCDも出した[3]。
2013年の後半から、のいるの病気療養により、こいるがピンの漫談家として活動していた。さらにこいるは同じ馬風ファミリーで相方の療養という境遇であったあした順子としばしば組んで漫才で活動したこともあった(ひろしの死去により順子が事実上引退状態となったため、これ以降こいるは亡くなるまで漫談がメインとなっていた)。
※こいるが「はいはいはいはい」と言いながら、頭を下げ、両手を顔の横に持っていき、上下に小刻みに振る、というお決まりのポーズを行う。 ※ネタの中盤以降に、こいるお得意の言動(上記)を、逆にのいるが行うこともある。それに対して、こいるがたじろぐ、こいるがやり返す、二人で応酬、などのパターンをみせる。
※こいるがひとしきりボケまくった後で、のいるが機転の利いたことを言い、逆にこいるが呆気に取られてネタが終了する。
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