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日本製糖汚職事件(にほんせいとうおしょくじけん)は、台湾を舞台に日本製糖取締役が共謀して、法律の延長を求めて複数の衆議院議員に対し金品を贈賄した明治時代に起きた疑獄事件。日糖事件ともいう。
日本は日清戦争以後、日本政府が台湾を統治するにあたり、製糖と樟脳を台湾における主要産業の一つと位置付け、製糖関係では1902年(明治35年)に『輸入原料砂糖戻税』を制定して保護した。この5年間有効の法律を更に1911年(明治44年)まで延長するために改正法案が提出され両院を通過したが、この法律を成立させるために、日本製糖社取締役秋山一裕、磯村音介などが自社の権益を守るために共謀し、有力衆議院議員20名に現金その他を渡して贈賄し買収したものである。
監査役は藤本ビルブローカー銀行(のち大和証券グループ本社)社長の藤本清兵衛。
ところが贈賄側に内部対立がおき、1909年(明治42年)4月11日に秋山一裕が検事官舎を訪れ、日本製糖が帳簿操作で不正金を捻出して衆議院議員を買収し、その資金出所を隠蔽した事実を自供した事から世間に明るみに出た。
贈賄側を取り調べる傍ら、収賄議員の事情聴取を進めた結果、収賄を受けた議員は、立憲政友会・憲政本党・大同倶楽部の3派20名に及ぶ。
秋山の自白から約2か月後の7月3日に、東京地方裁判所第二刑事部において判決が言い渡され、被告達に重禁固10か月から3か月に加え、収賄金の追徴の量刑となった。代議士以外の今田・江崎・中村の3名は贈賄行為の幇助、その謝金の収受の罪で起訴された[1]。
松浦・荻野・長谷川・栗原・沢田・横井・横田・佐藤・臼井・小沢・西村・神崎・安田・田村・江崎・川島の16名が控訴し、1909年8月10日に、東京控訴院第一部で次の通り判決が言い渡された[4]。
松浦・荻野・長谷川・栗原・沢田・横田・西村・神崎・田村・江崎の10名が上告し、検事上告の川島を含めた計11名に対して1909年12月17日に大審院で判決が言い渡され、全部上告棄却となり、控訴審判決が確定した[5]。
一方、贈賄側の日本製糖取締役は、瀆職法、文書偽造行使、委託金費消違反に問われ、東京地方裁判所第四部刑事部が担当で1909年(明治42年)12月6日に判決言い渡しがあり、磯村は重禁固4年、秋山が同3年6か月の実刑。他の取締役5名は執行猶予付きの重禁固2年6か月以下の判決が下った。しかし、磯村、秋山両被告は一審判決を不服として控訴したが、東京控訴院、宮城控訴院の各判決は共に1912年(明治45年)3月29日に上告棄却となり確定判決となる。
なお、当時日本精糖の社長を務めていた農学者の酒匂常明は、この事件の責任を取り1909年(明治42年)7月11日に短銃で自殺した[6]。
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