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文室 秋津(ふんや の あきつ)は、平安時代初期の貴族。大納言・文室浄三の孫。備前守・三諸大原の四男。官位は正四位下・参議。
右衛門大尉・右近衛将監・蔵人を経て、弘仁7年(816年)従五位下・左近衛将監に叙任される。弘仁8年(817年)に藤原真川の後任として甲斐守となり、翌弘仁9年には武蔵介に転任する。この転任は、弘仁・天長期に行われていた御牧整備との関連が指摘されている。弘仁13年(822年)10月木工頭となるが、同年12月に甲斐守に再任されるなど、嵯峨朝の後半は主に地方官を務めた。
淳和朝に入り、天長元年(824年)に従五位上・右兵衛権佐に叙任されると、天長2年(825年)正五位下・左近衛中将、天長3年(826年)従四位下、天長4年(827年)蔵人頭と武官を務めながら急速に昇進し、天長7年(830年)参議に任ぜられ公卿に列した。のち議政官として左右中将・左右大弁と文武の要職を兼任する。またこの間、天長8年(831年)従四位上に昇進し、天長9年(832年)には兼務ながら武蔵守に再任している。
天長10年(833年)仁明天皇の即位に伴い、淳和天皇の皇子・恒貞親王が皇太子に冊立されると、春宮大夫を兼ねる。承和元年(834年)左大弁・左中将の兼官の返上を上表し左大弁の辞任を許される。さらに翌承和2年(835年)には左中将から右中将次いで右衛門督兼検非違使別当に転任となる。承和8年(841年)正四位下に昇進するが、翌承和9年(842年)に発生した承和の変で恒貞親王が皇太子を廃されると、春宮大夫であった秋津も連座して出雲員外守に左遷された。
違法の取り締まりについて最も適した人材であり、武芸を論ずる際には、驍将と呼ぶに足る人物でもあった。一方、酒席にあっては、このような立派な人物に似つかわしくなく、酒を数杯飲むと必ず泣く癖があったという[1]。
注記のないものは『六国史』による。
大和国の豪族、秋津氏は末裔を称した。
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