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平松 聡(ひらまつ・さとし、1965年2月7日 - )は、日本の競馬ジャーナリスト、ターフライター。ターフライターとしては「平松さとし」名義で活動している。
東京都出身。小学校の時に父親が競馬好きだったことと、ハイセイコー(東京競馬場・鈴木勝太郎厩舎)ブームが起こったことも手伝って競馬に興味を持つ。父から譲られた『中央競馬のすべて』(日本中央競馬会広報室、1973年度)というパンフレットを読破したという[1]。本格的に競馬を観るようになったのは1970年代後半(昭和50年代前半)のTTG時代からである[1]。
高校を卒業して、競走馬の獣医を志望して日本大学農獣医学部に入学したが、1年保たずに中途退学[1]。その後、競馬専門紙のケイシュウNEWSに就職し、営業部社員となる。平松本人によれば「自分が中型オートバイ免許を所持していたから採用された」と考えているという[1][2]。平松はケイシュウNEWSの営業職を務めながら、関西競馬のレースのビデオを知人から送ってもらい、東西競馬の研究にも熱心であった[2]。
しかしながら営業職に嫌気が差し始めていた頃、ケイシュウNEWSのメイン予想家であった大川慶次郎から関西馬のダイイチルビー(伊藤雄二厩舎)が関東初見参となったサンスポ賞4歳牝馬特別(東京競馬場)に出走してきた際、平松は大川から「この馬(ダイイチルビー)はどんな馬なのか」と質問され、大川にレクチャーした。それがきっかけとなり、大川に気に入られて付き人のような形になる[2]。その後にケイシュウNEWS編集部から声がかかり、営業職からトラックマンへ転向することになる[1][2]。
トラックマン時代にはケイシュウNEWS本紙に「さとしのびっくり馬券術」と題する予想コラムも担当[2]、関西版本紙予想も務めるなど10年間、トラックマンとして美浦トレーニングセンター・栗東トレーニングセンターなどの取材活動を行う。
1992年にドクターデヴィアスが制覇したエプソムダービーをライブ観戦してからは日本だけでなく海外競馬も取材対象とし、1997年に独立してフリーのターフライターになった後は日本馬の遠征をメインに海外取材も精力的に展開、タイキシャトル(藤沢和雄厩舎、鞍上・岡部幸雄)のジャック・ル・マロワ賞制覇を皮切りに日本馬の海外GI制覇の殆どはライブで目にしていることを密かな誇りとしている[3][1]。
現在は『Sports Graphic Number』(文藝春秋社)[4]などスポーツ雑誌、新聞などでコラムを寄稿したり、著書を数多く出版するなど幅広い活動を展開している。
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