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市野上 浅右エ門(いちのかみ あさえもん、1767年(明和4年) - 1802年(享和2年)9月9日(旧暦8月13日))は、山形県温海町(現:山形県鶴岡市温海)出身の元大相撲力士。本名は斎藤 浅右衛門(さいとう あさえもん)。
大相撲史上最強力士、雷電爲右エ門に二度勝利した唯一の力士として知られる。
1767年に山形県温海町(現:山形県鶴岡市温海)で温泉宿「あらやまや(新玉屋)」の三代・斉藤五左衛門の長男として生まれ、幼名は五郎吉だった。1788年(天明8年)に初代・出羽ノ海に見出されたことで入門、1790年(寛政2年)11月場所において三段目付出しで初土俵を踏んだ。1793年(寛政5年)3月場所(幕下筆頭、現在でいう十両)と1797年3月場所にて雷電爲右エ門から勝利を挙げ、雷電に二度勝った唯一の力士となった。この間に雷電は43連勝を記録している。
1794年(寛政6年)3月場所で新入幕、1798年(寛政10年)4月場所で関脇に昇進し、1796年(寛政8年)3月場所と1800年(寛政12年)4月場所でそれぞれ優勝相当成績を挙げた。
四股名は「温海嶽(あつみだけ)」「鶴ヶ嶽(つるがたけ)」など出身地に因んだものを名乗っていたが、雷電から初勝利を挙げた際は「常山(つねやま)」、二度目の勝利の際は「花頂山(かちょうざん)」と名乗っていた。花頂山が幕内在位期間中で最も長く名乗っており、錦絵や史跡でもその名で呼ばれることが多い。
1802年(享和2年)には抱えが久留米藩に代わり、「市野上」の四股名を下賜される。同年2月場所の番付では大関に昇進していたが、病のため、場所終了後の京都巡業中に死去、34歳没。「大関・市野上」として本場所を務めることは叶わなかった。
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