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岡村 義夫(おかむら よしお、1907年3月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優[1][2][3][4][5][6][7]。クレジット表記等には岡村 義男、岡村 義雄の揺れがある[4][5][6][7]。本名植村 義一(うえむら ぎいち)[1][2]。「暗黒街」出身の人物とされ、サイレント映画の時代のマキノ・プロダクションの時代劇・現代劇の脇役・敵役として知られる[1][2]。
1907年(明治40年)3月5日、大阪府大阪市南区(現在の同府同市浪速区)に生まれる[1][2][3]。
学歴について触れた資料は見当たらないが、『日本映画俳優全集・男優編』によれば「資料によると学校生活を経て、大阪の暗黒街に活躍すとある」とされる[1]。満20歳になった1927年(昭和2年)、牧野省三が主宰し京都に御室撮影所をもつマキノ・プロダクションに入社、映画俳優に転身する[1][2]。「岡村 義夫」の名が記録に残るもっとも古い作品は、同年10月7日に公開された現代劇『黒怪流星』(監督富沢進郎)であり、大国一郎(のちの大邦一公)演じる無頼漢の乾分役の星英府の手下のひとりの役であった[4][8]。
1929年(昭和4年)1月15日および2月8日に公開された『浪人街 第二話 楽屋風呂』(監督マキノ正博)では、倉橋重兵衛という黒ずくめの無頼漢を演じた[1][2][4][6][9]。この役の人物造形について大井廣介は、「外国映画から出てきたような黒づくりの無頼漢」であり、『暗黒街』(監督ジョセフ・フォン・スタンバーグ)でジョージ・バンクロフトが演じた「ブル・ウィード」役からの影響を指摘している[9][10]。同年8月1日に公開された、『浪人街』のナンセンス喜劇版『無理矢理三千石』(監督松田定次)でも同様であり、「筋骨こそ逞しいが、上背はなく、それが地面にひきづるような長刀をたばさむのを常にし」というのが、大井の描く、剣戟俳優としての岡村像である[9][10]。
同年7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、岡村は、嵐冠三郎、荒木忍、南光明、根岸東一郎、谷崎十郎、阪東三右衛門、市川米十郎、東郷久義、市川幡谷、實川芦雁、桂武男、市川新蔵、津村博、澤田敬之助らとともに「俳優部男優」に名を連ねた[11]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化したが、1931年(昭和6年)7月、同社の解散とともに退社した[1]。同年3月19日(3月21日[5])に公開された『浪人太平記』(監督マキノ正博)が、記録に残る同社での最後の作品である[4][5]。
解散後は、同社の監督であった金森萬象が設立した協立映画プロダクションに参加、1932年(昭和7年)、金森が監督した『光を仰ぎて』に出演した記録が残っている[7]。以降の出演記録はなく[4][5][6][7]、以降の消息も伝えられていない[1]。没年不詳。
クレジットはすべて「出演」である[4][5]。公開日の右側には役名[4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[7][12]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画、特筆以外はすべて「岡村義夫」表記である[1][4][5][6][7]。
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