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日本の歌舞伎役者 ウィキペディアから
五代目 山村長太夫(ごだいめ やまむら ちょうだゆう、1688年 - 18世紀)は、歌舞伎の座元(劇場経営者)、歌舞伎役者である[1][2]。「江島生島事件」に連座したことで知られる、江戸・木挽町五丁目(現在の東京都中央区銀座5丁目)の「山村座」最後の経営者である[2][3]。襲名前の名は山村 七十郎(やまむら しちじゅうろう)、山村 三郎兵衛(やまむら さぶろべえ)の別名ももつ[1][2]。
1688年(元禄元年)に生まれる[2]。三代目山村長太夫の実子であるとも、養子であるともされている[2]。父・三代目は、山村座の創設者である初代山村長太夫の甥であり、初代の子・二代目山村長太夫の養子である[4]。四代目山村長太夫は、父にとっては養子、五代目にとっては兄にあたり[2][5]、四代目を襲名した延宝年間(1673年 - 1681年)には、まだ五代目は生まれていなかった[2][5]。五代目は、襲名前の名を山村七十郎といい、父・三代目の養子入り前の初名である「岡村七十郎」と名が同一である[1][2][4]。
満9歳を迎える1697年(元禄10年)ごろ、第五代長太夫を襲名しており、幼少にして山村座の座元を継承する[2]。このとき四代目は隠居・剃髪し、浄閑と改名している[5][6]。この元禄期に、山村座は、中村座(堺町、現在の中央区日本橋人形町)、市村座(葺屋町、現在の中央区日本橋人形町3丁目)、森田座(のちの守田座、木挽町五丁目、現在の中央区銀座5丁目)とともに官許を得た[3]。五代目の時代、1700年(元禄13年11月)には『頼政万年暦』、つづいて1701年(元禄14年1月)には『けいせい三鱗形』を同座において初演している[3]。1713年(正徳4年4月)には、二代目市川團十郎が助六を演じた出世作『花館愛護桜』を同座において初演している[3][7]。
満26歳となる1714年(正徳4年)、五代目自らが10年契約をして買い切った人気役者の生島新五郎らが起こした「絵島生島事件」に連座、伊豆大島に遠島(流罪)を申し付けられる[2][8]。それとともに、同年、山村座は廃絶処分となり[2][3]、1642年(寛永19年)の創設以来、「江戸四座」に数えられて栄華を誇り、72年に及んだ同座の歴史を閉じた[2][3][9]。これにより「江戸四座」は「江戸三座」になる[3]。
28年が経過した1742年(寛保2年)には、遠島処分を解除されて江戸に戻るが、すでに満54歳を迎える年になっていた[2]。このとき三宅島に流された生島新五郎も江戸にもどったが、翌1743年1月30日(寛保3年1月5日)に生島は没したとされる[10]。五代目の正確な没年は不詳であるが、18世紀には亡くなっている[2]。
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