小野寺 重太郎(おのでら じゅうたろう、1871年1月18日(明治3年11月28日[1][2]) - 1939年(昭和14年)2月5日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。従三位勲一等功三級[要出典]。
経歴
福井県出身[1][注 1]。小野寺長の長男として生まれる[1]。陸軍幼年学校を経て、1891年(明治24年)7月、陸軍士官学校(2期)を卒業[1][2][3]。翌年3月、砲兵少尉に任官し野砲兵第3連隊付となる[1][3]。1896年(明治29年)11月、陸軍砲工学校高等科(4期)を優等で卒業[4][5]。さらに、1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を卒業した[1][2][4]。
1901年(明治34年)5月、清国駐屯軍司令部付となり、参謀本部出仕、参謀本部員、陸大教官を歴任し、1903年(明治36年)6月、砲兵少佐に昇進[1]。1904年(明治37年)3月、第2軍参謀に発令され日露戦争に出征[1][2]。さらに大本営参謀、第13師団参謀を歴任[1]。1906年(明治39年)2月、陸大教官に就任し、1907年(明治40年)11月、砲兵中佐に進級[1]。1909年(明治42年)7月、参謀本部課長に転じ、1911年(明治44年)11月、砲兵大佐に昇進[1][4]。1913年(大正2年)8月、野砲兵第13連隊長に就任[1][4]。
1915年(大正4年)8月、第14師団参謀長に異動し、1917年(大正6年)8月、陸軍少将に進級し陸軍野戦砲兵射撃学校長に就任[1][2][4]。1919年(大正8年)4月、砲兵監部付となり、第16師団留守司令官、第16師団司令部付を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍中将に進み第8師団長に親補され、シベリア出兵に派遣された[1][2][4]。1924年(大正13年)2月に待命となり、同月、予備役に編入された[1][4]。
栄典
- 位階
- 勲章等
親族
脚注
参考文献
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