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小田切 昌快(おだぎり まさよし)は、江戸時代前期の徳川家家臣(旗本)。致仕号は松月[1]。
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 慶長17年(1612年) |
死没 | 貞享2年9月8日(1685年10月5日)[1][2] |
別名 | 甚之助、新右衛門[1](通称) |
戒名 | 浄林[1] |
墓所 | 神奈川県逗子市の海宝院[1] |
幕府 | 江戸幕府御蔵奉行→書院番頭→奏者番 |
主君 | 徳川家光→徳川家綱→徳川綱吉 |
氏族 | 長谷川氏→小田切氏 |
父母 |
父:長谷川長重、母:牛奥昌次娘 養父:小田切昌次[1] |
兄弟 |
長谷川長守、昌快、某(七十郎)、女子(高林正成妻)、女子(根岸直勝妻)、女子(三枝守盛妻)[3] 昌直、昌快、女子(石原安昌妻)、女子(小田切昌直娘、昌次養女、昌快妻)[1] |
妻 | 小田切昌次養女(小田切昌直娘)[1] |
子 | 昌近、昌一、昌直、青木昌廉、某(弥三郎)、某(加右衛門)、女子(石原安吉妻)、女子(高林正成妻)、女子(永田正勝妻)、女子(青木又左衛門某妻)、女子(岡野重明妻)、[1] |
長谷川長重の次男として生まれ、小田切昌次の養子となり、その養女を妻とした。寛永5年(1628年)、将軍徳川家光に拝謁し、同年4月14日(5月17日)に大番に列す[1]。寛永7年(1630年)および翌8年、蔵米計200俵を給される[2]。寛永10年(1633年)5月19日に200石を加増され、蔵米を采地に改められ相模国大住郡落幡村[2]に400石を知行し、その後御蔵奉行となった[1]。慶安4年(1651年)9月29日に書院番頭に任じられ、後に奏者番を務めた[1]。
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