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小山田 大学助(おやまだ だいがくのすけ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。晴信(信玄)、勝頼2代に仕えた。父は信濃国佐久郡内山城代・小山田虎満(初代備中守、上原伊賀守、出家名は玄怡)、兄に小山田昌成(二代目備中守)がいる[1]。諱を「昌貞」とする説もあるが、史料からは確認されない[1]。
『甲陽軍鑑』によれば、大学助は永禄12年(1569年)の小田原攻めに際して旗本に編成され、35騎を率いたという[1]。このため、兄の昌成とは独立した扱いを受けていたと考えられている[1]。初見史料は天正5年(1577年)閏7月で、「誓願寺文書」によれば、昌成の同心が喧嘩を多し、静岡県静岡市の誓願寺の山林に蟄居になったという[1]。「飯島家文書」によれば、天正7年(1579年)8月12日には被官10人の普請役を免除されたという[1]。この文書は信濃国丸子(長野県上田市)に伝来していることから、内山城(長野県佐久市)の城代である小山田虎満・昌成親子は小県郡にも支配を及ぼしていたとも考えられている[1]。天正7年10月12日には父の虎満が死去する。
また、年不詳10月27日には、駒井昌直・駒井宮内大輔とともに「居城」の法度を受けている[1]。大学助の「居城」は駒井昌直が駿河深沢城(静岡県御殿場市)の城代であることから、大学助も深沢城へ入っていたと考えられている[1]。文書の年代は元亀2年(1571年)か天正7年(1579年)・天正8年(1580年)に推定されている[1]。
その後、兄の昌成に従い高遠城(伊那市高遠町)へ入る。『信長公記』『甲乱記』によれば、天正10年(1582年)3月の織田信長による甲州征伐では高遠城において篭城し、城主・仁科盛信や兄の昌成らとともに信長の嫡子・織田信忠の軍勢と戦って討死した[1]。大学助の子孫とされる真田氏家臣の山田氏に伝わる「真田氏所蔵御家中系図」によれば、大学助の法名は「格翁道禅定門」であるという[1]。
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