小出三尹
日本の安土桃山時代~江戸時代前期の武将・大名。和泉岸和田藩初代藩主小出秀政四男で、江戸幕府旗本小出秀家養子。和泉陶器藩初代藩主(2000石→1万石)。従五位下大隅守 ウィキペディアから
小出 三尹(こいで みつただ[5]/みつまさ[6])は、江戸時代前期の大名。和泉陶器藩初代藩主。秀家流小出家2代当主。三尹の「三」は石田三成からの偏諱ともされる[5]。
略歴
天正17年(1589年)、小出秀政(和泉岸和田藩主)の四男として、丹波国で生まれた。秀政の正室は、豊臣秀吉の母なか(大政所)の妹・栄松院であるが、三尹の母は側室のため、秀吉と血のつながりはない。
はじめ豊臣秀吉に仕え、秀吉馬廻を勤めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父や兄と同じ西軍に属し、『武家事紀』などによれば、吉政の養子の木下俊定らと大津城の戦いに参加し、少年ながら砲を操作していて敵弾で負傷した[5]。親子共々処分されても仕方がない状況であったが、兄の秀家が一人東軍に属して各所で戦功を挙げたため、その功により小出家は皆助命されて所領もそのままとなった。
慶長8年(1603年)、兄秀家が死去したため、その養子となって家督を継ぎ、豊臣秀頼に仕えた。同年、徳川家康の推挙により、従五位下に叙される。
慶長9年(1604年)の父・秀政の死より、遺領の一部が与えられることになって、甥の吉英の領地であった和泉国大鳥郡、河内国錦部郡、摂津国西成郡、但馬国気多郡、美含郡の5郡において、併せて1万石を分与されて大名となり、和泉陶器藩の初代藩主となった。なお、秀家より相続した旧領2000石はこの時に召しあげられた。
慶長14年(1609年)、江戸に出て、将軍徳川秀忠に伺候する。
慶長19年(1614年)からの2度の大坂の陣に徳川方として参加した。
寛永10年(1633年)、永井監物白元、乗山内匠一直らと尾張で奉行を務め、同12年には遠江でも奉行を務めた。また寛永11年(1634年)の将軍徳川家光の上洛に供奉した。寛永17年(1640年)の池田輝澄改易の際の上使を務めるなどに功績があった。
脚注
参考文献
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