Loading AI tools
大日本帝国陸軍軍人 ウィキペディアから
寺垣 忠雄(てらがき ただお、1895年(明治28年)5月11日[1] - 1966年(昭和41年)2月18日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[2]
1895年(明治28年)に石川県で生まれた[1]。1913年(大正2年)3月に金沢一中(同級には外交官になった森島守人がいる)を卒業後、陸軍士官学校第28期、陸軍大学校第40期卒業[3]。アメリカ駐在を経て[2]、1935年(昭和10年)に秩父宮雍仁親王附となる[4]。1937年(昭和12年)に上海派遣軍後方課長に就任し[4]、日中戦争に出動。1938年(昭和13年)3月1日には歩兵第35連隊長に転じ[4]、7月15日に陸軍歩兵大佐に進級[4]。漢口攻略などで戦果を収めた[1][3]。
1939年(昭和14年)に陸軍大学校兵学教官に転じ[4]、1941年(昭和16年)に陸軍少将に進級[4]。1942年(昭和17年)に第12軍参謀長に転じ[1]、1944年(昭和19年)に第1方面軍参謀長と歴任[1]。1945年(昭和20年)3月1日に陸軍中将に進級[4]、4月1日に第142師団長に親補され[1]、宮城県石巻に布陣し[1]、終戦を迎えた。終戦後の8月25日に陸軍省軍務局附を経て[5]、9月3日に中部軍管区司令部附、9月10日に兼第2総軍参謀、9月21日に第2総軍参謀副長を発令された[6]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.