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宇田 道隆(うだ みちたか、1905年1月13日 - 1982年5月10日[1])は、昭和期の日本の海洋物理・水産海洋学者。
1905年、高知県土佐郡小高坂村で生まれた[2]。1921年に高知県立第一中学校を卒業後、仙台の第二高等学校に進んだ。1924年、東京帝国大学物理学科に入学し、寺田寅彦や藤原咲平の指導を受けた。1927年に同大学を卒業。
卒業後の1927年4月、農林省水産講習所(後の東京水産大学、現在は東京海洋大学)技師に採用された。1928年2月から翌年11月まで、兵役のため、幹部候補生として浜松高射砲第一連隊に入隊。除隊後に復職するが、水産講習所の組織再編により、1929年10月より農林省水産試験場技師となり、海洋調査部に勤務。田内森三郎の指導を受けながら潮目の模型実験などを始めた。1930年より当時としては画期的な総合海洋観測であった北太平洋日本近海一斉海洋調査の企画、推進、観測にあたり、大きな成果を収めた。1939年、東京帝国大学に学位論文"Researches on "siome" or current rip in the seas and oceans"(海洋の潮目の研究)を提出して理学博士号を取得[3]。
1941年に応召し、高射砲兵少尉として満州へ出征。しかし、東京帝国大学で恩師であった藤原咲平中央気象台長の要請により兵役解除となり、1942年、神戸海洋気象台長に就任。しかし、1943年に再び応召し、スマトラ派遣機関砲101大隊小隊長となった。同年11月からは、シンガポールの南方軍総司令部気象班に勤務。1944年4月、広島市宇品の陸軍船舶練習部付に転任。1945年8月6日、広島に原爆がされた際には被爆、負傷した。
終戦後は広島気象台に勤務し、原爆による黒い雨など影響調査にあたった。1946年、長崎および佐世保測候所長として、翌年南山手町の旧長崎要塞司令部跡地に創設予定の長崎海洋気象台創設の事務にあたった。1947年4月30日に長崎海洋気象台が開設されると、初代気象台長となった。1949年、東海区水産研究所所長に就任。
1951年、東京水産大学教授となり、漁場、漁業気象学の講座を担当した。1968年に東京水産大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、東海大学教授として1975年まで教鞭をとった。
学界においては、1932年に現在の日本海洋学会の前身となる「海洋学談話会」を代表として組織し、海洋学に関連する国内外の研究情報の交換や発表の場を整備した[4]。1941年に日本海洋学会が発足すると、副会長として初期の活動を長年にわたって支えた[5]。また、水産海洋研究会会長も務めた。
研究の上でも寺田寅彦門下であったが、文学の点でも寺田を師として俳諧の指導を受けた[6]。短歌については高知一中時代から詠んでおり、後年『アララギ』に投稿したりしており、歌人としても知られた。1977年正月には、宮中歌会始の召人を務めた。同年のお題は「海」であり、召人として「金華山 沖にしるけき 潮筋を いるか群れ飛ぶ 夕焼の海」と詠んでいる[7]。
日本近海ならびに北西太平洋の海況の物理的解明に努力し、潮目、冷水塊、海洋・気象相関、亜熱帯反流の発見などで業績を上げた。また東京水産大学で教鞭をとり、日本の漁場学、水産海洋学の基礎確立に尽力し、後進の指導にも熱心であった。
水産海洋学会の創立者の一人であり、その功績を記念して、同会の水産海洋学研究において顕著な業績を上げた正会員に贈呈される「宇田賞」が設立された[8]。
2009年に研究記録、資料、手稿、ノートなどが東京水産大学附属図書館に寄贈され、宇田道隆文庫となっている[9]。専門の海洋学以外に、俳句や短歌の短冊や、色紙、アルバムなども含まれている。
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