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孫 拯(そん じょう、? - 303年)は、中国三国時代の呉・西晋の政治家・詩人。字は顕世。揚州呉郡富春県の人。孫氏の一族で、曾祖父は孫河。
呉の鎮南将軍孫慎の子に生まれた。孫拯は学問を好み、文才があり、孫拯の作った『蛍火の賦』は世間に流行した[1]。
呉の末年には黄門侍郎に任じられ、呉帝孫晧の元、多くの士官が罪を得たり譴責を受ける中、顧栄と共に孫晧の信任を受け、出来事の記録を担当したり、皇帝からの諮問に答えたりした。その仕事ぶりに、孫晧に詔で「今後、侍郎を任命するに際しては、孫拯や顧栄のごとき人物でなくてはならない」とまで言わしめた。
呉の滅亡後は晋に仕え、范陽郡の涿県県令に任じられ治績を上げた。八王の乱では成都王司馬穎から大都督に任じられた後将軍陸機に司馬として招かれ従軍した。小都督孟超は1万人を率いて陸機軍に従軍していたが、交戦が始まる前に兵を放って略奪を行ったので、陸機は主犯者を逮捕した。すると、孟超は鉄騎100人余りを率いて陸機の陣営に突入し、逮捕された部下を奪い返すと「貉奴如きに都督が務まるというのか?」と罵りながら去っていった。孫拯は陸機へ孟超を誅殺するよう勧めたが、陸機は実行しなかった。孟超は陸機が謀反を起こしたと触れ回り、さらに洛陽にいる兄の宦官孟玖へ手紙を送って陸機の異心を伝えた。交戦が始まると、孟超は陸機の指揮から勝手に離れ、独断で軽兵を率いて司馬乂軍を攻撃するも、敗れて戦死した。孟玖は陸機が孟超を殺したのではないかと疑い、陸機が司馬乂と通じていると讒言した。孟玖と仲の良かった牽秀・王闡・郝昌・公師藩らも共同して陸機の謀反を弾劾したので、司馬穎は激怒して牽秀に陸機の逮捕を命じ、孫拯もまた獄に繋がれた。孫拯は獄中で陸機の無実を訴え続けたが、陸機が処刑され、彼の踝の骨を見せられて自らの終わりを悟った。門下生の費慈・宰意は獄中の孫拯に会いに行った。孫拯は2人に譬え遺した。「我の義では古くから陸機殿の無実の罪を被るところを逃れられなかった。陸機殿に何をもってまたあの世でよろしく会えるだろうか?」2人は言った。「我々も無実の罪を一緒に被りましょう!」孫拯は獄中で死に、費慈・宰意もまた後を追って死んだという。
孫拯の作品は、『先秦漢魏晋南北朝詩』に詩が一首残っている[2]。
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