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孫 其昌(そん きしょう)は、中華民国、満州国の政治家。北京政府、奉天派に属し後に満州国で要人となった。字は鍾舞、仲舞。
清末の附生。日本に留学し、東京師範学校を卒業した。帰国後は、遼寧師範学校校長、奉天商業学校校長、黒竜江省督軍公署秘書を歴任している。1920年(民国9年)7月、署理黒竜江省教育庁庁長となる。翌年7月、北京政府外交部特派吉林交渉員に転じた。1925年(民国14年)、吉林省財政庁庁長兼永衡官銀号会弁に就任した。1927年(民国16年)5月、吉長道尹に任命されている。張学良が国民政府に易幟した翌年12月、孫は吉林省政府委員となっている。その後、同省建設庁庁長も兼ね、1931年(民国20年)に辞職した[1]。
同年、満州事変(九・一八事変)が勃発すると、孫其昌は熙洽が組織した吉林省政府に加入し、民政庁庁長[2]兼永衡官銀号会弁兼煙酒事務局局長[1]に任じられる。翌1932年(大同元年)3月9日に満州国が正式に成立すると、孫は参議府参議に起用された[3]。同年6月1日、財政部次長の栄厚が満州中央銀行総裁に転じたため、孫がその後任となっている[4]。1933年(大同2年)6月21日に黒竜江省省長へ移り[5]、翌1934年(康徳元年)12月1日に竜江省が成立すると同省省長となった[6]。
1935年(康徳2年)5月21日、孫其昌は満州国財政部大臣に任じられた[7]。1937年(康徳4年)5月7日、民政部大臣に異動し[8]、同年7月1日、改組により民生部大臣となっている[9]。しかし1940年(康徳7年)5月16日、孫は参議府参議に左遷された[10]。満州国の経済政策に対して不満を鳴らしたことが原因とされる[11]。1942年(康徳9年)9月28日までその地位にあった[12]。
1945年(民国34年)8月に満州国が崩壊すると、孫其昌は瀋陽や北平に隠れ住んだ。しかし、中華人民共和国成立後の1951年2月に、北京市公安局に逮捕されてしまう[13]。1954年、孫其昌は処刑された[14]。享年70。
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