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失われた都市Z(うしなわれたとし ゼット、英:Lost City of Z)は、イギリスの探検家パーシー・フォーセットがブラジルのマット・グロッソ州を流れるシングー川の周辺のジャングルに存在すると考えていた先住民の都市。フォーセットは、1914年までには、この古代都市の存在と具体的な所在地の両方を突き止めていた[1]。
失われた都市Zという名称はフォーセット自身が命名した暗号名に由来する。フォーセットはこの都市をただ単に「Z」と呼称したが、その由来は本人が語っていないため、一切不明である[2]。
フォーセットは、南アメリカの初期の歴史とアマゾン川流域の探検で得た知見に基づき、かつてアマゾンには複雑な文明が発生し今でもその遺跡が残っている可能性があるという理論を立てた[3]。
1920年、フォーセットは都市を発見するために探検に乗り出したが、結果的に熱に苦しまされ荷物を運搬する動物を射殺することになったので探検を諦めた[3]。 5年後の1925年に行われた探検でフォーセットとその息子のジャック、ジャックの友人のローリー・ライメル(Raleigh Rimell)の3人はマットグロッソのジャングルで姿を消した。
アマゾンには有史以来高度な文明が栄えたことはないとされる。アマゾンの環境は過酷で食物も育たず、人口の増加も望めなかったため、様々な文化や技術もまったく発展しなかった[4]。
しかし、コンキスタドールたちの年代記には、神殿を建造して精巧な工芸品も生み出していた『白く輝く都市』の目撃談などアマゾンに文明が栄えたことを示す証言が数多く残されている[5]。(現代では、こういったアマゾン川流域の文明はスペイン人やポルトガル人によるアマゾン川遠征の影響で17世紀には消滅していたことが明らかになっている[6]。)
年代記はそれらの記述から学者によって信用出来ない代物だとされていたが、フォーセットは自身がアマゾンを探検した経験から、年代記には事実が含まれていると感じた[7]。エルドラドの黄金郷伝説は作り話だとしても、文明に関する記述や女性戦士などについては実在したか、モデルがあるだろうと考えた[7]。
1910年、ボリビアのヒース川を探検中にグアラヨ族から毒矢を使った攻撃を受けた。フォーセットは同行の探検者に反撃しないように伝えて、インディアンの言葉で「友、友、友」と言いながら、降り注ぐ毒矢の中を進んでいき、最終的に彼らと和解した[8]。グアラヨ族はヨーロッパ人のアマゾンに対する見解とは異なりジャングルの中でも食料を調達する方法や薬学に精通していた[9]。
フォーセットはこの出来事からアマゾンのジャングルに失われた文明が存在すると考えるようになった[10]。
1914年、フォーセットはアマゾンの奥地に眠るとされる未知の古代文明を探索中にマスビ族の集落にたどり着いた(マスビ族との遭遇)[11]。集落には数千人の住民が暮らしており、彼らは様々な面で文明的だったので、普通のヨーロッパ人は近寄らない、川から離れたジャングルの奥地には、当時の民族学の常識を覆すような事実があると考えた[12]。
また、フォーセットはアマゾンのジャングルで岩に描かれた古代絵や土器を発見していた[13]。フォーセット曰くアマゾン盆地に点在するアルトゥラスと呼ばれる高台の近くには必ず遺物があり、さらに、高台は別の高台と道路のようなもので結ばれていたという[13]。
フォーセットは探検の合間を縫って過去に南アメリカを探検した人々の年代記を調査していた。
フォーセットはブラジル国立図書館でポルトガル人バンデイランテスが当時のブラジル総督ルイス・ペレグリノ・デ・アタイデに宛てた『1753年発見の......大きな隠された古代都市の史記』という文書を発見した[14][15][i]。フォーセットはこの文書がアマゾンに文明が存在したことを示す重要な証拠だと考えていた[17]。
文書は、1753年、ミナス・ゲライスに住む名もなき男(名前は失われている)がムリベカ銀山を探しに行くところから始まる[18]。地図や測量など無い時代で進む方向は適当だったが、フォーセットの調査によると男の一団は北に向かったという[18]。彼らは10年もの間、銀山を求めて一帯を彷徨ったが、得るものは何も無く、海岸沿いにある植民地に向けて東に進むことにした[19]。
途中、森林地帯の平原の先に、切り立った山が現れた。男は探検心から、その向こうの景色を見たくなり、登頂を試みたが、山は絶壁で登ることが出来なかった[20]。一行は夜営をすることになり、ホセとマノエルにたき木を探しに行かせた。2人はたまたまシカを見かけ、その姿を追っていったところ、頂上に登っていけそうな割れ目を見つけた[20]。その発見を聞き付けた一行は夜営を取り止めて、登頂を再開し、時間を掛けて山頂まで辿り着いた[21]。
頂上から景色を眺めたところ、山の麓から4マイル先に巨大な都市があった[21]。
その都市がスペインの植民地かもしれないので一行は急いで身を隠した[21]。翌日、名もなき男はポルトガル人2人、黒人4人の偵察隊を結成して、都市の詳細を調査させに行かせたあと、一行に同行してきた先住民をさらなる偵察に出すことにした[22]。彼は一行に都市は無人だとの報告をもたらしたので都市に向かうことになった[22]。
都市は廃墟になってから久しいようで、地面に埋没している建物やコウモリの排泄物で埋まってしまった建物もあった[23]。至るところの地面が割れていることから都市は地震に襲われて滅んだものと推察された[23]。
都市の外方には植物に覆われた城壁があり、そこを進むと、3つのアーチで構成される門が現れた[24]。真ん中のアーチの上には正体不明の文字が刻まれた石があった(アーチが高過ぎたのでこの文字を書き写すことは出来なかった)[24]。アーチを潜ると広い通りがあり両端には2階建ての家が連なっていた[24]。通りは大きな広場に接続されて、その広場の四隅には黒石の尖塔があり、中央には北を指差しながら別の手を腰に当てた男の彫刻が安置された黒石の柱があった[25]。
広場には宮殿らしき建物があり、その玄関の上部にはギリシャ文字らしきものや青年の像があった[25]。宮殿の向かい側には神殿らしき建物があり、ここの入り口の上にも文字らしきものが刻まれていた[23]。
広場の向こうには川があり、それを渡った場所、都市から4分の1マイル離れた所には、文字が刻まれた石碑やカラフルな石で出来た階段がある建物があった[23]。
ホアン・アントニオ(唯一名前が残っている人物)が金貨を拾ったことから、都市には地震から急いで逃げた住民たちの財宝が遺されているという話になったが、それ以上の詳細は語られてないため不明である[29]。
男は川近くの森林から入り文明世界へと帰還することにした。いったんここを出て財宝を運搬するための探検隊を引き連れてから、この都市に戻ってくる予定だった[30]。なお、都市の位置については不明だが、一行の先住民が覚えてくれるだろうと考えた[30]。
都市を離れて50マイル進むと大瀑布があり、その絶壁には鉱山跡があった[30]。男たちは東に向かって進み、サン・フランシスコ川に着いてからパラグァッス川を経由してバイアに到着した[31]。男は都市の財宝と鉱山を自分たちのものにするため、バイアからブラジル総督のアタイデに手紙を送ったが、スルーされた[31]。
それ以降の男や都市の運命については、不明である[31]。100年後にブラジル政府がこの文書を発見し、探検隊が組まれたが、何の成果も上げられなかった[31]。
フォーセットによると、ブラジルにはこの様な失われた都市が点在しているという[32]。具体的には、1913年、ブラジルの英国総領事・ダニエル・ロバート・オサリバン・ビーア(Daniel Robert O’Sullivan Beare)が、先住民のガイドに連れられて、密林に埋もれた別の失われた都市に案内されたという[33][34][14]。これに対して、文化人類学者の泉靖一は、このような話は信憑性に欠けると評している[35]。
また、フォーセットと同じトーキー出身でアラビアン・ナイトの翻訳で有名な探検家のリチャード・バートンもこの文書を読んでブラジルの秘境地帯に赴き、そこでの探険を綴った『Explorations of the Highlands of Brazil: With a Full Account of the Gold & Diamond Mines』を出版している[28]。
先住民への聞き取り調査などを進めたフォーセットはシングー川のジャングル、具体的にはシングー川とタパジョス川の間に存在する未踏のジャングルに失われた都市があるという仮説に至った[2][36]。フォーセットはシングー川流域のこの都市を単に"Z"と呼称した[2]。(なお、1753年に発見された都市はブラジル東部のバイーア州付近がその候補地である)
2つの川やその支流自体は人々の探査を受けていたが、その周辺の陸地のジャングルは未踏だった。しかし、陸地を切り進んでいくのは大変危険だったため、フォーセットは自身にこのジャングルを攻略出来ないのであれば、他の人間に攻略の目など(ほぼ)ないと考えていた[37]。
フォーセットは発見を先取りされることを恐れ、また、自身が行方不明になった際に救出部隊を派遣させないために[iii]、失われた都市Zの正確な所在地を明らかにしなかった。
フォーセットは「Z」を築いた民族の詳細を語っていないが[38]、息子のブライアンに宛てた手紙によると、失われた都市Zは、峡谷の中の高台に位置し石造りの道路やピラミッド型の神殿などがあるという[39][40]。いっぽう、アマゾンに失われた都市Zがあるという話に当時の科学者は否定的な態度を示した[41]。
フォーセットがZ発見にむけて探検の準備をしているときに第1次世界大戦が勃発しイギリス政府の支援を受けられなくなった。フォーセットはイギリスに戻って西部戦線に従事した。
終戦後、フォーセットは資金集めに奔走したが、大学で考古学や人類学の教育を受けた専門家の台頭によって、フォーセットのような探検家には資金が集まり難くなっていた[41]。ロンドンで出会ったブラジル大統領のエピタシオ・ペッソアはフォーセットの考えに共感を示したがブラジルに探検を支援するような金銭的余裕はなかった[42]。
フォーセットのアマゾン探検には医師で億万長者のアレクサンダー・ハミルトン・ライスというライバルがいた[43]。
ライスは先進的なテクノロジーと大規模部隊でジャングルの攻略を試みた[43]。資産家でもなく、ジャングルに大規模な部隊を引き連れていくのは無謀だと考えて少数精鋭で探検に挑んでいたフォーセットとは対照的な人物だった[44]。
終戦後、ライスはジャングルの河川地域を進むために14メートルの船エレナⅡ号を建造してオリノコ川周辺を探検していた[45]。カシキアレ川を遡る途上で先住民の遺物が遺されていると噂されるジャングルを探検していたところフォーセットの日誌に登場するものとよく似た古代絵を発見した[46][iv]。
1920年2月、フォーセットはリオデジャネイロに到着した。フォーセットはイギリス大使ラルフ・パジェットの邸宅に身を寄せた。この頃ライスが古代絵を発見したという報告をもたらし、装備を整えてから再びジャングルに挑戦すると宣言したことでフォーセットを動揺させた[48]。
パジェット大使のアテンドでフォーセット、ペッソア大統領、現地の探検家カンジド・ロンドンの三者会談が実現、フォーセットはそこでZについて熱弁を振るい大統領の共感を得たが、ロンドンは探検ルートを明かさないフォーセットをスパイではないかと疑った[49]。
ロンドンがZ探索はイギリスとブラジルの共同で行われるべきだと主張したところ、フォーセットが激昂し単独で探険に向かう旨を伝えた[49]。ブラジル側の財政難により、英伯合同で探検隊を編成する案は頓挫したが、大使の尽力でブラジル政府はフォーセットに同行する人間に対して援助を行うと決定した[49][50]。
その同行者はイギリス航空省の士官だったが、急遽ブラジルへの渡航を取り止めたので、現地で同行者(有能な若い男)を募集する新聞広告を掲載することになった[50]。
探検仲間のヘンリー・コスティン(Henry Costin)とヘンリー・マンレー(Henry Manley)が終戦後に前者が引退、後者が死亡していたので探検に際して彼らを頼ることは出来なかった[v][52]。フォーセットは彼らに絶大な信頼を寄せており、自分に着いてこれる人物は2人だけだと語っていた[53]。
フォーセットは新聞広告の応募者の1人、オーストラリア人ボクサーのルイス・ブラウン[vi]を同行者に選出した[54]。ブラウンは馬と船に精通していると誇っていた。ブラジル政府はフォーセットたちに2人の軍人を付けることを約束した[55]。
8月12日、フォーセットとブラウンはサンパウロに向かった。サンパウロで毒ヘビの血清を手に入れたあと、蒸気機関車でパラグア川まで移動してから川を蒸気船でコルンバまで遡った[56]。コルンバではブラジルの財政難やベルギー国王と王妃の来伯によって軍の士官を派遣出来なくなったとの電報を受け取った[57]。
クイアバにて新聞広告の募集者の1人で鳥類学者のアーネスト・ホールト(Ernest Golsan Holt)[vii]と合流してから、馬と牛を2頭ずつ連れて北部のシングー川を目指して出発した[54][58]。馬に慣れていると自称していたブラウンが実は馬に乗れないことが判明し、体調も悪化していったので、フォーセットはブラウンにクイアバに引き返すことを勧めて彼を帰還させた。
北上する過程で立ち寄った農場では、洞窟に住むモルセゴ族(Morcegos tribe)の伝説を聞いた[59]。モルセゴ族とは、現地でその存在が噂されていた、伝説上の民族である[60]。
探検の途上で立ち寄ったヘルメネギルド・ガルヴァ大佐(Hermenegildo Galvão)が運営する農場ではシングー川とタバティンガ川の間に住むナファクア族(Nafaqua tribe)の族長が神殿を建て洗礼の文化を持つ先住民の都市の話を知っているという情報を仕入れた[61]。また、別の先住民から消えない明かりがついたままの家(遺跡)があるという話を聞いたフォーセットは、いにしえの世界には今では失われてしまった照明の技術や方法があったに違いないと回想している[61]。
一行は北に向かって進み続けてクヤバ川上流近くに辿り着いた[62]。ここは、大蛇が泳ぎ回っているため大変危険とのことだった。そこをさらに北に進んだところの森林地帯では雷雨やシラミの大群に襲われた[63]。フォーセットはシラミを何とも思わなかったが、ホールトはシラミの大群に参ってしまったった[63]。
次第に両名が精神的、肉体的に疲弊していった。ホールトはジャングルの昆虫に精神を削られ、フォーセットの脚は感染症に罹りアヘンの錠剤も受け付けないほどに疲弊した[64]。
ホールトとフォーセットがともに限界を迎えていたため、フォーセットは撤退を決断した。36時間を水なしの状態で過ごしながら前進を続けたという。出発から1ヶ月、フォーセットは後にデッド・ホース・キャンプと呼ばれる場所で馬を撃ち殺した[65]。
そのうちブラジル軍が設営している前哨基地にたどり着いた。ここの支配人は20年前に起こったある事件の詳細を話してくれた。いわく、ある兵士たちの一群がフォーセットらが歩いて来た方角に向かったところ、アラグアイア川沿いでモルセゴ族からの襲撃を受けて部隊はほぼ壊滅、生き残った指揮官は精神錯乱状態に陥ってしまったという[66]。
1928年、ロンドンの部下で今回(1920年)の探検の一部に同行したラミロ・ノローニャ大尉は、フォーセットらがバカイリ営所にたどり着くまでの経緯を記した「フォーセット・レポート」なる文書をインディオ保護局に提出した[68]。
フォーセットはホールトを連れて再びジャングル探検に向かう予定を立てており、今度の探検ではフォーセット、ホールト、もう一人の3人で舟で川を遡ってから、動物に頼らず荷物を自分たちで運びながら陸地を進んでいく計画だった[69]。この計画は徒歩に不慣れな仲間の負担を軽減するため大部分を川での移動に費やす予定だった[69]。
しかし、この探検はフォーセットがホールトをクビにしたので実行されることはなかった[70]。
クイアバに到着したフォーセットとホールトは、サンフランシスコ川流域のゴングギ地方の調査を行うことにした。この地方には、道に迷った人がアーチや彫刻のある古代の廃墟らしき場所に迷い込んだ話などが伝わっていた[71]。1921年5月3日、2人は探検の開始地点・バイアに到着した。
バイアでは不思議な話を耳にした。1910年、あるイギリスの捕鯨船・船長が不漁のためバイアに寄港した。船長は気晴らしに町のバーで酒を飲んでいると、あるブラジル人と仲良くなり、あるブードゥー教の占い師に自分の運命を占ってもらうことになった(当時のバイアでは、ブードゥー教が流行っていた)[72]。そのブラジル人の案内でバイアの街中を進んで行き、占い師が住んでいる家にたどり着いた。占い師は捕鯨船船長に「航海に出ると1頭のクジラが現れる。そのクジラは捕ってはいけないが、その数日後に自由に出来る5頭のクジラが現れるだろう」と言った。
後日、占い通りにクジラが現れたが、興奮した船長は警告を無視して1頭目のクジラに銛を撃ち込んでしまった。しかし、クジラの反撃を受けてクルー数人が死にクジラにも逃げられてしまった。バイアに戻ってきた船長は再び占い師の家に赴くと、激昂した占い師が約束を守らなかった船長を責め出した。そして「あのクジラは私だった」と言って肩にある傷(銛でつけられた傷)を見せた[73]。そして、今後クジラは捕れないだろうと船長に告げたという。
ジェクイエという町の南方では、ボトクド族(アイモレ族)から、建物の屋根が黄金で葺かれており、炎のように輝いているという「火の都市」の伝説を聞いた[74][75]。フォーセットは、この「火の都市」が「Z」かもしれないと考えた[75]。
2人はバイアからナザレスに向かい、奥地探検への出発点となるボア・ノヴァへ到着した。
2人は探検の末にクーロ・ダンタという山に登って眼下に広がるジャングルを見渡したが、失われた都市の遺跡らしきものは見当たらなかった[76]。その後、ホールトの精神が乗り気ではなくなったので探検を切り上げてバイアに戻ることになった[77]。
文化人類学者の泉靖一によると、この探検で2人が聴取していった失われた都市の噂はサンフランシスコ川流域から北西の方向に続いていったという[35]。なお、サンフランシスコ川中流域には、エメラルドの水中都市の伝説が流布している[78]。
1921年8月、今度はバイーアから西に数百キロ進んでマットグロッソのジャングルに突入するルートに単独で挑んだ[79]。フォーセット自身は1人で探検に向かえば生還の見込みが低くなることを認識していたが、ホールトとは仲違いしていたのでチームを編成できるような状況ではなかった[79]。
この探検は3ヶ月で終了したが、『フォーセット探検記』によると適切な装備と探検隊を組織して再びジャングルに戻るに足る発見をしたという[79][80]。
フォーセットは前回の探検で貯金を使い果たしたことで破産し、硝酸塩鉱物や石油の採掘で探検費用の捻出を図っていた[81]。
以前から、アラビアのロレンスことT・E・ロレンスが次回のZ探索に自分を加えて欲しいとフォーセットに頼み込んできていた。しかしフォーセットは、砂漠での経験があるとしても、ジャングルでは使い物にならないだろうという冷めた目でロレンスを見ていた。
そこで、ロレンスの代わりにロサンゼルスに転居して俳優を目指していた息子のジャック・フォーセット(Jack Fawcett)を探検に誘ったところジャックは二つ返事でこれを快諾した[viii]。ジャックは190cmの長身で無駄な脂肪はなく、将来、探検に出ることに備えて体を鍛え続けていた[83][84]。
また、ジャックの友人のローリー・ライメル(Raleigh Rimell)も探険に加わることになった[ix]。ライメルはジャックと一緒にLAで俳優を目指していたが、既にその夢に見切りをつけており、新たに人生を変えるチャンスを探しているところだった[85]。
同年9月に出会ったジョージ・リンチが変わり種の記事を求めて世界中に記者を派遣していた北米新聞連合にフォーセットの探検の独占報道権を売り込むことに成功した[86]。また、連合その他からは約5000ドル、Zの話を聞き付けたジョン・ロックフェラー2世(石油王ロックフェラーの息子)から4500ドルを支援された[87]。
1925年1月、アメリカのニュージャージー州ホーボーケンからリオデジャネイロに向かうランポート&ホールト社の大型蒸気船ヴォーバン号に乗り込んだ。
ブラジル到着後、リオのホテルの庭で探検器具のテストを行い、2月11日に出発した。3人はサンパウロの毒ヘビ研究所で毒ヘビの生態をレクチャーされ、5年分の毒ヘビの血清も手に入れた[88]。
コルンバからパラグアイ川に停泊していたイグアテミ号に乗り込んでクイアバに向かったが、船では大量のシロアリや昆虫の大群に襲われた[89]。
3月3日、探検のスタート地点であるクイアバに到着し雨季が終わるまでの数週間を食料の調達や射撃の練習に充てた。4月20日、3人は2人のガイド(ガルデニアとシモン[90])と共にクイアバから北へ向けて出発した。
フォーセットは執拗にZへのルートを隠していたが、後年明らかになった様々な資料によると、クイアバから北に出発後、バカイリ族の領地を通過してデッド・ホース・キャンプにたどり着き、現在のシングー国立公園の奥地に向かってから、アラグアイア川に到着、そこから北上してパラー州を経由してアマゾン川の河口近くに出る予定だったと見られる[91]。
フォーセットはクイアバから北方に進むと大きな滝があり、その近くには水晶製の円板が安置された石造りの都市が存在すると聞いていたので、可能であればそこにも立ち寄る計画を立てていた[92]。また、Zまでのルート上にはモルセゴ族の領地があり、そこには夜になると光を放つ正体不明の石の塔が立っているとの情報も得ていた[92]。
クイアバ出発後、3人はセラードと呼ばれる灼熱の荒野を歩いていった[93]。フォーセットは次第に歩くペースを上げていき、2人はおろかガイドすらも置き去りにしてしまった。ジャックとライメルの一行はフォーセットを追いかけて行ったところマンソ川に辿り着き、そこから更に捜索を続けた末にようやくフォーセットと合流することが出来た。
この探検でジャックは2~3キロ筋肉を付けたが、一方のライメルは大量のダニに足を噛まれて感染症にかかり体重も減少していった。ガルヴァ大佐の家で数日間休養を取り、東方のバカイリ営所に向かった。5月15日に営所に辿り着き、そこでジャックが22歳の誕生日(5月19日)を迎えた。ジャックは営所を訪ねてきたシングー川流域に住むメヒナク族の写真を25枚撮り、それを近くの川の水を使って現像した[94]。
営所ではクイアバから北にあるという例の石造りの都市の話を知っているバカイリ族のロベルトから話を聞いた。いわく、その都市はモルセゴ族やカヒビ族(Caxibis)の領地になっているので、近づくのは危険だということだった[95]。また、メヒナク族の話では、営所から北に4日間進んだところに人食い族のマカヒリー族(Macahirys)が住んでいるという[95]。
一行は営所から北方のジャングルに向けて出発した。フォーセットはマチェーテを振るって鬱蒼としたジャングルの中を進んで行き、9日後にデッド・ホース・キャンプに行き着いた[96]。ライメルはジャングルでの前進の過程で、もう片方の足も感染症にかかってしまい、Zへの関心も喪失していた。フォーセットは2人のガイドと共に帰還するようにライメルに勧めたが、彼はその提案に対して反発した。
なお、デッド・ホース・キャンプの周辺は敵対的なスヤ族やカイアポ族が支配していた。フォーセットはキャンプから東に進んで行く予定だったが、そのルート通りに探検を進めるためには凶暴なシャヴァンテ族が支配する死の川周辺の熱帯雨林を踏破しなければならなかった[97]。しかし、フォーセットは彼らと友好的な関係を築き上げて「Z」へ辿り着く事ができると自負していた[98]。
1925年5月29日、フォーセットはデッド・ホース・キャンプで妻に宛てた手紙を書いて帰還するガイド2人にそれを持たせた。その手紙の文末には「私たちが失敗する心配はない......[99]」と書かれていた。ガイドと別れて以降の3人の行方については、いまだ不明である。
3人の失踪後、彼らや失われた都市Zを発見するための探検隊が組織され、マット・グロッソの秘境に赴いていった。イギリスの新聞・The Ovserverによると100人、歴史家のジョン・ヘミングによると1人が捜索の過程で命を落とした[100][101]。しかし、非公開で行われた探検も多く、その実態は不明である[102]。
1953年、息子のブライアン・フォーセット(Brian Fawcett)によって『フォーセット探検記』が出版された。
1920年、南緯11度43分 西経54度35分の地点(北米新聞連盟への手紙では南緯13度43分 西経54度35分)でフォーセットの馬が死亡した[99]。
1925年の探検でフォーセットは再びここにたどり着き、妻へ向けた手紙を送ってから行方不明となった。ここはデッド・ホース・キャンプと呼ばれ、後年の人々がZやフォーセットを探すための重要な手掛かりになっている。
1961年、文化人類学者の泉靖一はフォーセットたちがジャングルの中を1ヶ月で歩ける距離は下限が200km、上限が600kmだと推定して、キャンプ(南緯11度43分 西経54度35分)から北に200kmと600kmの2つの半円を描き、その2つに挟まれた地域の何処かにZがあるだろうと推測した[104]。
しかし、作家のデイビッド・グランがキャンプの正しい座標が書き込まれたフォーセットの日誌を彼の子孫の家で発見したことによって『フォーセット探検記』に記された座標(南緯11度43分 西経54度35分)は目眩ましだと判明した[105]。子孫曰く、ブライアンが父やジャックの意志を尊重したため『フォーセット探検記』に偽の座標が載せられたという[105]。
グランによると本当のキャンプは南緯11度43分 西経54度35分から150km以上南の位置にある[36]。
近年、フォーセットがZが存在すると考えた地域から古代文明の遺跡が発見されている[106]。
人類学者のマイケル・ヘッケンバーガー(Michael Heckenberger)はシングー川上流近くにあるKuhikugu遺跡が失われた都市Zではないかと考えて10年間に渡って研究を続けてきた[107]。Kuhikugu遺跡で発見された20の町や村にはかつて5万人もの人々が住んでいた可能性がある。
アマゾニア南部の河間地域では大きな幾何学的な土塁(geometrical earthworks)が発見された[108]。
2022年5月、ボリビアのリャノス・デ・モホス地域のジャングルでカサラベ文化の失われた古代都市が発見された[109][110]。
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