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福島市北部、飯坂町市街地西側にある風致公園であり、舘ノ山にある大鳥城跡を用いて1880年に供用が開始された[1]。大鳥城跡をめぐる遊歩道が整備され、アジサイの名所となっているほか、園内の一角を用いて花ももの里が整備されている。東隣には飯坂球場、福島市立大鳥中学校が建っている。
大鳥城(おおとりじょう)は源義経の郎党、佐藤継信・忠信兄弟の父信夫庄司(湯庄治とも)佐藤基治(元治)の居城であった。鵬城、丸山ともいう。
『信達一統志[2]』によれば、伝承として、保元2年(1157年)藤原秀衡の命により、佐藤基治が白川会津までの代官と定められ、大鳥城を築いたとされる。文治5年(1189年)8月8日、佐藤基治以下主だった将が石那坂(石名坂・いしなざか)において陣を敷き、源頼朝率いる奥州征伐軍と戦って敗れる(石那坂の戦い)[3]が、その際に大鳥城も落城したとされる。伝承によれば、佐藤基治は、山上の本陣に一羽の鶴を埋め、「鶴の魂、羽を張り大鳥に変じ敵を阻む」と詠み、必勝を祈願したとされる。そして名月の頃、頼朝軍に攻められて陥落したとされる。飯坂の地名の由来は1300年以降[4] であるが、この佐藤庄司の本拠地(飯坂)大鳥城での戦いこそが、吾妻鏡に登場する石那坂の戦いではないかとする新たな説が論じられている[5]。(石那坂は飯坂の古名と考えられている。)
佐藤一族はその後赦され、本領の大鳥城にしばらく居城していたと考えられる。以後13世紀に入り、伊勢地方に転封となり(吾妻鏡)、一部は郷士として飯坂の地に残った(大鳥城記)、全国佐藤姓の源の一つである。
南には小川、北側には赤川、東には摺上川と3つの川が流れており、大鳥城の堀の役目を果たしている。山頂部には主郭、その西側には櫓跡と呼ばれる郭が存在する。『吾妻鏡』石那坂の戦いにて説明されている「堀湟懸入逢隈河水於其中」は阿武隈河に流れ込む小川・赤川・摺上川を大鳥城の天然の堀として見立てたものであり、「陣于石那坂之上」は飯坂の山上(大鳥城本陣跡)を意味していると福島県福島市議会議員の石原洋三郎は主張している[6]。山頂部は1995年(平成7年)の発掘調査により[7]14世紀の輸入陶磁器等が出土、後世の造営と考えられる。
基治が在城中の居館は、現在大鳥中学校、飯坂球場(赤舘という地名が残る)が立地する東山麓部分にあったものと推定されている。そのさらに東側には大門の地名が残っており、大鳥城への大手門があったと推定される(現在は温泉集会所、大門の湯が存在する)。
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