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大輪藩(おおわはん)は、下総国岡田郡(豊田郡[注釈 1])大輪村(現在の茨城県常総市大輪町)を居所として、江戸時代前期に存在した藩[3]。1658年、土井利勝の五男・土井利直が1万石の大名となる。1677年、利直死後に所領が半減され、土井家は旗本となった。
土井利直は、江戸幕府初期の老中として有名な土井利勝(下総古河藩16万石の藩主)の五男として、寛永14年(1637年)に[注釈 3]生まれた[1]。寛永18年(1641年)に5歳で徳川家光に御目見し、徳川家綱に近侍した[1]。
寛永21年(1644年)7月10日、土井利勝が死去した。同年9月1日、嫡男の土井利隆が古河藩13万5000石を相続するとともに、三男の土井利長・四男の土井利房にそれぞれ1万石[注釈 4]、五男の土井利直に5000石が分知された[6]。
古河藩主となった利隆は家臣と対立し、家老大野仁兵衛が諌死するなどの事態を引き起こした[7]。慶安4年(1651年)、利隆は表向きに病気と称し、実質的な隠居状態に置かれた(主君押込)[7]。以後8年間、公式行事においては利直が利隆の名代を務めた[7]。
万治元年(1658年)9月7日、利隆は公式に隠居し[注釈 5]、その子の利重が古河藩を継いだ[6]。この際、古河藩の領地から利直に5000石が分知された[1]。これにより利直は常陸国河内郡、下野国足利郡、武蔵国埼玉郡、下総国岡田郡と葛飾郡を領する1万石の大名となって、岡田郡大輪村[注釈 1]を居所とした[1]。
同年閏12月に詰衆となり、従五位下・信濃守に叙任された[1]。寛文4年(1664年)に領知朱印状を発給され(寛文印知)[1]、寛文6年(1666年)にはじめて領地に赴く暇を与えられた(参勤交代)[1]。
利直は延宝4年(1676年)7月26日に奏者番に就任する[1]。しかし、翌延宝5年(1677年)3月15日に41歳で死去した[1]。
『寛政重修諸家譜』によれば、利直には実子として3男1女があったが、長男と次男は早世し、三男は病気の上に幼少であった[1]。このため利直は死に臨んで、兄・利房の次男の利良(4歳)を養嗣子として迎え、家督を相続させることを願い出た[1](末期養子参照)。しかし、一族にも相談せずに申請が行われたことは不適切(「麁忽の作法」)とされ[注釈 6]、本来ならば所領没収相当であるところ、利勝の功績を考慮し、所領半減の上での相続が認められた[1]。利良は、武蔵国埼玉郡、下総国岡田郡・葛飾郡、下野国足利郡の4郡で5000石を知行する旗本となり[1]、大輪藩は廃藩となった。大輪村は土井家と幕府の相給となり、土井家は幕末まで一部の領主であった[2]。
譜代。1万石。
大輪は中世から村落として存在したという[8]。「元三大師」の別名で知られる当地の安楽寺は、
大輪陣屋は、常総市大輪町の茨城県道123号土浦坂東線沿い、鬼怒川右岸の微高地に位置した[10][注釈 7]。大輪村には陣屋の置かれた行政中心地としての性格は残されず、農村に帰した[8]。
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