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千葉県印西市の大字 ウィキペディアから
北は浅間前、茨城県利根町布川、北東は木下、東は竹袋、南東は別所、南は鹿黒南、草深、南西は鹿黒、西は亀成、北西は発作に隣接している。
小字は以下の通り[4]。
江戸時代は大森村[5]・大森新田[6]の2村、1874年(明治7年)頃からは大森村である。
大森村(おおもりむら)は下総国印旛郡のうち。印西領に属す。寛文年間(1661年~1673年)から幕府領、1697年(元禄10年)から幕府・旗本西山氏の相給、1701年(元禄14年)から佐倉藩領、1723年(享保8年)から淀藩領。村高は「元禄郷帳」1,069石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,062石余。なお1672年(寛文12年)の検地により、新田582石余が高請されている。当村に、幕府領期に代官の出張陣屋、淀藩領期に飛地支配の陣屋が置かれた。1723年(享保8年)「淀領郷村帳」によれば、小物成として夫銭永2貫139文余・山銭永1貫906文余・百姓林銭永820文余・夏苅銭永744文を上納(田辺家文書)。1873年(明治6年)千葉県に所属。1872年(明治5年)の戸数560・人口1,375。1874年(同7年)頃に大森新田を合併。神社は火皇子神社・鳥見神社、寺院は天台宗長楽寺・星光院(印旛郡誌)。1889年(明治22年)大杜村の大字となる[5]。
大森新田(おおもりしんでん)は下総国印旛郡のうち。印西領に属す。利根川支流亀成川左岸に位置する。もと小金牧のうち印西牧の一部。1670年(寛文10年)惣深新田開発請負主・鰭ケ崎村清重郎らが近隣村との対立を避けて草深野の一部を16か村に分与した。それを切添新田として大森村が開発し1679年(延宝7年)の検地により高請され成立。幕府領。村高は「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに98石余。1679年(延宝7年)の反別下畑20町8反余・屋敷1反余。1873年(明治6年)千葉県に所属。1874年(同7年)頃本村である大森村の一部となるが、以来「古新田」と通称される[6]。
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[7]。
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