大慶直胤
1778–1857, 江戸時代後期の刀工 ウィキペディアから
1778–1857, 江戸時代後期の刀工 ウィキペディアから
大慶 直胤(たいけい なおたね、安永8年〈1779年〉[注釈 1]- 安政4年5月27日〈1857年6月18日〉)は、日本の刀工[1]。江戸時代後期に活動した刀工であり、師匠にあたる水心子正秀や源清麿と共に新々刀期の「江戸三作」の一つに数えられる[1]。
出羽国出身[1]。父は出羽国の刀鍛冶であり「安光作」「出羽国住安光」などと切る。作風は備前伝に似るため備州長船安光の末葉ともいわれるが、長船安光自体室町時代、永禄頃までの代で途切れており、後代が出羽国に移り住んだとの記録もない為真相は定かではない。直胤は俗名を庄司(荘司)箕兵衛といい、安光の次男として最初父のもとで作刀を学び、20代半ばで江戸に出て正秀の門弟となり初銘を「次郎安光」を名乗った。しかし、その技量が余りにも類まれであったため正秀の門弟となって間もなく「直胤」と改し号を「大慶」とした、その為初期銘の作は非常に少ないと言われる。1857年(安政4年)5月27日没、79歳。「江戸三作」と呼ばれるほど高名な刀工であるが、1853年(嘉永6年)の「松代藩荒試し」では、その作刀の脆弱さが露になり、源清麿の兄の山浦真雄(やまうら さねお)の作刀の強靭さが証明された逸話が有名である。
受領銘は筑前大掾、美濃介である。銘は「荘司美濃介藤原直胤」「出羽霞城荘司直胤」「大慶直胤」「筑前大掾直胤」「出羽国住人天慶荘司直胤」などを切る[2]。また、晩年の作品には、わざと実年齢より1~2才多く記した年齢が添銘されているという特徴もある[2]。
独立した後は、多くの著名な刀工を輩出した。中でも水心子正秀の養子である「直勝」に娘を嫁がせており、直胤の初期銘「次郎」を与「上総次郎直勝」その後「庄司次郎太郎直勝」を名乗っている。また、二代直勝は初め直好を名乗り、後に「荘司弥門直勝」の銘を切っている。他に直胤の高弟には「吉胤」俗名 本庄亀之助、細田平次郎直光(鍛冶平)らがいる。
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