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江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩士。多久鍋島家(後多久氏)10代当主 (1811-1843) ウィキペディアから
多久 茂澄(たく しげすみ)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩士。多久鍋島家(後多久氏)10代当主。
9代多久邑主・多久茂鄰の三男として誕生。文化11年(1814年)、請役家老だった父・茂鄰が、藩財政の悪化の責任を取らされ隠居を命じられたため、家督を相続した。
幼いころより聡明で才知に富み、文政9年(1826年)3月、藩主・鍋島斉直より参政を命じられ、11月には僅か16歳で当役(請役家老)となるが、天保元年(1830年)、斉直が隠居して斉正が藩主となると、しだいに藩政から遠ざけられる。
天保6年(1835年)5月10日、佐賀城二の丸で火災が起こり、役所が多久屋敷に移され往来が頻繁になったことで、天保7年(1836年)、屋敷が隣接する深堀領主鍋島茂長の嫡男茂勲の正室お區(まち)との不義密通が発覚した。お區は、茂澄の正室お為や藩主斉正(直正)の妹であった。10月に茂澄は職を解かれ、藩主斉正より謹慎を命じられた。本来死罪となるところ、斉正と先代藩主斉直が相談の上、12月20日に知行を召し上げ浪人を命じられる。翌日21日に、嫡子松千代(茂族)に改めて知行7000石が与えられた。これを「多久の一夜浪人」と呼ばれる。
天保8年(1837年)1月、一睡と改名し、天保14年(1843年)1月6日没した。享年32。菩提寺の円通寺に葬られた。没収された知行は、天保14年(1843年)3月、先祖の功績により元に戻されている。
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