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塩田 広重(しおた ひろしげ、旧字:鹽田廣重。1873年10月14日[1] - 1965年5月11日[1])は、日本の外科医。貴族院勅選議員、日本医科大学学長。
1872年 京都府宮津市で誕生[2]。1888年、大阪の第三高等学校予科の試験に合格するも、東京の一高を目指すために退学。上京し、駿河台にあった予備校の成立学舎にて学び、坪内逍遥らに学ぶ。1890年、第一高等学校予科に入学[3]。1895年、東京帝国大学医学部に入学[3]。1899年、東京帝国大学医学部卒業[2][3]。病理学教室で三浦守治、山極勝三郎の両教授の下で学んだ後[3]、佐藤三吉教授の外科に移った[3]。そこでユリウス・スクリバや近藤次繁の指導を受けた[3]。
東京帝国大学医科大学助手[1]、済生学舎講師[1]を経て、1902年東京帝国大学医科大学助教授[1]。1907年〜1909年、私費でドイツ・オーストリアに留学[3]、ウィーン大学にて病理学を学ぶ。1914年9月11月から1916年8月まで、日本赤十字社救護班医長としてフランスへ派遣され[1]、パリ市内のアストリアホテルに設けられた日本赤十字社救護班が運営するフランス陸軍直轄第4厚誼病院にて軍医として従事[3]。その功績にてレジオンドヌール勲章を授与されている[要出典]。1919年6月、29歳女性の子宮筋腫による重度の貧血患者(赤血球数110万/μl、輸血直前83万/μl)に輸血を行い救命した[要出典]。
1922年、東京帝国大学教授に就任[1][2]、外科学第2講座を担当した[3]。1926年、日本医科大学教授[1]および同大学の初代学長を兼任した。1928年、日本医科大学の学長の小此木信六郎学長が急逝したため[3]、塩田が第3代学長に選ばれた[3]。以降30年もの長い間学長を務めた[3]。1934年、東京大学を依願退職[1][3]、名誉教授[1]。東京帝国大学口腔外科教室教授の都築正男が後任の外科学第2教室の教授として選出された。[要出典]
1946年 貴族院議員に勅選される[要出典]。1949年 日本初の一般向け医学書として「家庭の医学」を時事通信社より発行するにあたり、稲田龍吉とともに責任編集を担当した[要出典]。
1951年、日本医科大学理事長に選任され[1]、1954年まで務める。輸血手技・イレウスの研究をし、成人病研究を提唱。また老年学の草分けとして、1954年、寿命学研究会を創設[要出典]。同年、文化功労者ならびに名誉都民となる[1]。第二次世界大戦直後は厚生省医療局長として軍病院の転用にあたった[要出典]。
1956年12月、第1回日本ジェロントロジー学会が東京で開催されるにあたり、会長をつとめた[要出典]。また1954年から10年にわたり、国際外科学会日本部会の会長を務めた[4]。1960年、日本医科大学長を退職[3]、日本医科大学名誉教授[1]。1962年、日本医師会最高優功賞[1]。1964年、勲一等瑞宝章受章[1]。
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