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ドイツの外科医 ウィキペディアから
ユリウス・カール・スクリバ(Julius Karl Scriba、1848年6月5日 - 1905年1月3日)は、ドイツの外科医。明治期のお雇い外国人で日本における西洋医学の発展に重要な貢献をした。
1848年、ダルムシュタットで生まれた。医学、薬学を学んだ。1871年の普仏戦争で軍務についたため、戦争が終わった3年後にハイデルベルク大学を卒業し、フライベルクで開業した。有名な外科医、ヴィンツェンツ・チェルニー(de:Vincenz Czerny)のもとに弟子入りして、1879年からフライブルク大学の講師を務めた。アマチュア植物学者としても評価を受け、ヘッセン大公国の花に関する著書も出版した。
1870年代はじめ日本の明治政府はヨーロッパで最も進んでいると考えたドイツ医学界から、医学教育を革新するために医師の派遣を要請し、レオポルト・ミュルレル、テオドール・ホフマンらが招かれ、内科のエルヴィン・フォン・ベルツとユリウス・スクリバはその次の世代として日本の医学教育に貢献した。1881年7月6日から東京大学で外科、皮膚科、眼科、婦人科を教えた。契約の満了によりドイツに一度戻るが、契約は1889年9月2日から1901年9月10日までに延長されたため再来日する。1892年に日本における頭蓋陥没骨折治療のために頭蓋骨切除の手術を行った。在任中は後に日本の外科学をリードする外科医を育成し、助手の三宅速などが著名である。
ドイツ大使館の医師を務め、1901年に退職した後は聖路加病院の外科主任を務めた。日本外科学会の名誉会員、東京大学の名誉教授となった。1905年、神奈川県鎌倉市で肺膿瘍で死亡した。
下関で、下関条約締結のために来日していた清国の李鴻章負傷事件、ロシア帝国の皇太子ニコライが負傷した大津事件などで、日本政府の要請により現地に出張した。
ウィキメディア・コモンズには、ユリウス・スクリバに関するカテゴリがあります。
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